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影踏み、影渡り

作者: 藤沢みや

大正時代パラレル。雰囲気重視です。



 穏やかな笑み。

 気配を隠すような態度。

 集団の中に、群衆の中に……埋没しようとする佇まい。

 そんなところに惹かれたと言えば、彼はきっと微苦笑を浮かべるだろう。

 落ち着いた声で「文さん」と呼ばれる幼馴染が無性に羨ましくて。


 ――― あたしは、どうかしている。


 りにって、なぜ、あんな男に惹かれてしまったのだろう。

 頭を抱えたくなる。

 文に一輪の花と結び文を託した男は、冷静な笑みを浮かべたまま歩き去る。

 あたしは唇を噛み締めた。

 今から、しようとしていることは、もしかしたら文との友情すら打ち壊すことになるかもしれない。

 だけど勘弁して。

 どうしても、どうしても欲しいと思ってしまったんだ。

 あの人があたしを見て、微笑む姿が欲しい。

 欲しい。

 あたしは……走り出した。




 ◇◇◇


 日暮れの街外れ。

 薄紫に染まる空は徐々に陰に飲まれていく。

 カランコロンと響く下駄の音。

 帝都と呼ばれる街のはずなのに、あたしの周辺だけ田舎のような香りがする。

 家事をしやすいようにたすき掛けをしたまま、普段着の着古した着物の裾を絡げて走る。

 洋装をした男性や、髪の毛を耳元でくるんと巻いたモダンガールが、驚いたように振り向いていく。

 街中を女が全力疾走をするなど、異常な光景だというのはわかっている。

 でも、追い駆けたい。


 目の前の男の背中は遠い。


 全速力で追い駆けているのに縮まる気配がない気がする。

 それだけ、あたしと彼の間は遠いということ。

 そのことにぞっとする。

「なにか、ご用ですか?」

 振り向きもせずに、止まりもせずに、男が尋ねてきた。

 あたしにしか聞こえないように。

 いつの間にか、人が溢れる場所まで出ていたようだ。

 周囲には人がたくさんいるというのに、あたしにしか聞こえないように、この男は話す。

「文さんの出資者パトロンについて、ご興味が?」

 あたしは硬直する。

 確かに充分怪しい。

 文の出資者はずっと姿を現さず、あの子のことを影から助けている。

 同居人のあたしが訝しむのも普通なら、当然のことなのだろう。

 だが、あたしは普通の状態ではない。

 恐ろしいことに『恋する乙女』なんぞになっている。

「いえ。その方については知っていますので」

 小さく首を振る。

 これは本当。

 なんとなく、察しているし、その想像が概ね合っていることを知っている。だって、周囲を見ていればだいたいはわかるくらいに、あからさま。

 いつもいつも、あの子……文が大変な時に差し伸べられる手。

 あの子は気が付いていないけれど、冷静な分、あたしには周囲が見えた。

 ――― たぶん、『彼』。

 きっと『彼』は知られたくないのだ。

 そして、文を欲することを『彼』は許されていない状況だとも、察していた。

「そう、ご存知なのですか」

 彼は足を止めると少しだけ振り向いて、僅かに首を傾げた。

「では、何故?」

 どうして追い駆けてくるのか。

 それが聞きたいのだろう。

 あたしは喉を詰まらせる。

 背が高く、端正な顔を隠すように長い前髪をしている男は、地味なスーツを身に纏っているが、姿形が地味ではないから、とても目立つ。

 でも、その目立つ容姿を影のように薄くする術にも長けていた。


 なんて言えば、彼の興味を引ける?


 どうすれば、彼があたしに興味を持ってくれる?


 ごくりと唾を飲み込む。

 そして、顔を上げる。




「影を、踏んでみたくて」




 短く言えば、目の前の男が完全に振り返った。

 口元には歪んだ笑み。

「‥‥‥影を?」

 冷ややかな瞳に後退あとずさりしそうになる体を叱咤して、唇を突き出す。

「影踏みを、したくて」

「そう‥‥‥ですか、影を」

 男はそう呟くとあたしの隣を通り過ぎる。

 ――― 今宵、影が貴女の前に訪れるでしょう。

 そう、冷ややかな囁きを残して。





 ◇◇◇


 あたしは、家に戻ると土間で膝を抱え込んだ。

 莫迦だ。あたしは。

 そんなことは知っていたけれど‥‥‥

 来てくれるのだろうか、あの人は。

 自らを影と認めたあの人は。

 あたしは自分の浅慮さに辟易とする。

 どうしたいんだろう、あたしは?

 彼と所帯を持つ? それはありえない。

 想像もできない。

 だけど、話をしたい。

 名前を呼んで欲しい。

 あたしを見て欲しい。

 あたしの姿を、あの冷ややかな瞳に映して欲しい。

(う、うぅぅぅああああああ!)

 どんな浪漫主義者だ、あたしは!!

 自分の思いにあたしは頭を抱える。

 莫迦だ。莫迦だ。あたしは莫迦だ。


 そう自分を蔑んでも、膝を抱えるのをやめて、あたしの手はなれたように夕餉を作り上げた。

 少しだけ遅い食事を、親友……文の元まで運ぶ。

 真っ白なご飯にだし巻き卵、里芋の煮っころがし、お漬物、いんげんの胡麻和え。いつも通りの、質素に見えるけれどあたしからしたら豪勢な食事。

 文はやっぱり寝食忘れて、目の前の美女(ただし布の上)に夢中になっていた。それをえいやっと引っぺがして、食事を促す。

 彼女がご飯を食べている間に寝間を整え、歯を磨かせて、布団の上に放り込む。すると彼女は、美女のことを忘れて、眠りの国へ旅立った。

 こんなふうに夢中になれることが、なんだか羨ましくて……そして、ちょっとだけ怖い。

 あたしは、こんなふうに寝食を忘れたりできない。

 お腹は減る。

 ……あたしは、目の光のまだない、布の上の美女を眺めて目を細める。

 今度の美女は『彼』に、なんとなく似ていた。



 食器を手早く洗いながら、台所を眺める。

 文とあたしが住むこの小さな家屋は、昨今の世相と逆行するように和で溢れていた。

 他国との交流を長年断っていた我が国は、拓かれた途端になにかを取り戻すかのように、諸外国の文化を飲み込んでいった。街に溢れる不思議な意匠。見上げても先がわからないような高い建物。足の長さがあからさまにわかる男性の衣装。腰の細さが露わになる女性の装い。

 建物も服装も食べ物も、すべてが塗り替えられるかのように洋のものが押し寄せて来ているこの頃。

 ただ、文の絵は違う。

 懐かしい情景。父や祖父が愛した女性が、絹の布の上に妖艶に描かれる。

 文の描く絵は、和に溢れていた。

 和しかない。


 文……


 文とあたしは、主従で幼馴染で親友だ。

 彼女は、浅沼家という大きな豪商の末娘に生まれ……そして、紀勢家の御曹司の愛人をしている。

 愛人を『している』というのは、おかしいかもしれない。

 ただ、そうとしか言いようがない。

 浅沼文は、幼少から絵の力を認められ、日本画の大家に師事をしていた。幼い彼女の描く和の世界の女性画は一世を風靡し、神童と持て囃されていた。

 彼女がこの時に描いた絵を、彼女の師匠は容赦なく売り捌いて金に換え、文に与えた。

 ――― 売れる絵を描けと。

 文は、その言葉に諾と答えつつも……好きな、自分の描きたいものを描き続けた。

 そして、その絵も皮肉なことに売れた。


 朝靄の中の野菜売りの女。

 朝露に微笑む春を売る女。

 朝霧に男を見送る女。

 朝雨の中、たおやかに書をしたためる女。


 女の『和の美』を切り取った、靄や霧の中の女たち。

 性を知らない少女の、大人の女性への憧れを詰めた絵は、男達に「艶がある」と褒め称えられ、おぞましいことに使うだろう人々の手元へ旅立った。

 文は、絵が売れた金を両親に勝手に使われた。彼女の両親が買ったのは古いお屋敷。その屋敷へ、文は一人で……追い出された。もともと、末娘といっても春をひさぐ女の生んだ娘。

 正妻に疎まれていた文は、気にするでなくその屋敷へあっさりと移り住んだ。

 あたしは、勝手に文へ付いて行った。

 文に日常を紡ぐことはできない。

 お膳を下げることでさえ、絵に囚われれば忘れる女だ。

 あたしは、文の両親に黙認されて、彼女の女中となった。だって、あたしがいなければ文はすぐに飢え死ぬ。面倒を見る者は必要不可欠だ。


 あたしが仕えるのは文一人。

 彼女の女中も、あたし一人。


 気楽な主従関係が成立した。

 女二人暮らしなど、狙ってくれと言っているようなものだが、『彼』のおかげで、平穏無事。近所に買い物に出掛けても、あたたかく迎え入れられた。手配をしてくれたであろう『彼』に対して、ついつい拝んでしまう。

 ありがたやありがたや。

 大きな大きな囲いで包まれた、平和な二人暮らし。

 そんな場所へ、彼はこっそりと羽を休めに来る。

 影さんは、『彼』の式神のように、ふらりと訪れては消える。




 そして、あたしは本当に莫迦だった。




 ……だいぶ遅くなったから、「やっぱり来ないんだろうな~」と勝手に判断して、寝巻に着替えて布団に潜り込んでしまっていたのだ。

 影のお兄さんが来た時、あたしは大口を開けて、寝ていたらしい。

 それを本人に指摘されて、顔を真っ赤にさせて布団の中に隠れた。

 思わず瞳も潤むってもんだ。

 好きな人のおとないを、大口開けて迎えるなんて、情けないにも程がある。

「あなたは、楽しい人ですね」

 心の底から呆れた声って、きっとこんな感じだ。

 居た堪れなくて布団から出られないと思っていたが、まるで奇術師の見世物のように、あっという間に布団から引き摺り出された。

 冷たい手のひらが頬を撫でる。

 そのことが信じられなくて呆然として見上げた。

 熱で幻影でも見ているのだろうか。感覚まであるから幻覚?

「しっかりしているかと思えば、そうでもない」

 その物言いに唇を尖らせる。

「文さんの身の回りの世話を、あなたは率先して行っている。妙な親近感を覚えたものです」

 首を傾げる。

 ‥‥‥親近感?

「文の手が創り出すものを、あたしは最初に目にできる。それが世話を焼く代償なのかもしれない……あなたも?」

 男の目を見つめてあたしは小さな声で尋ねる。

 夜遅く、女性の部屋に入り込んでいるはずなのに、男の気配は影のまま。

 ああ、この影を捕まえたい。

 気ままな影。

「随分と、差のある代償ですね」

 くつりと零された笑み。

 その笑みにあたしは熱に浮かされたまま頷く。

「そうかな……でも、あなたも同じじゃないの?」

 あたしの反論に影さんは瞳を瞬かせて、そして微笑んだ。

「そうですね。なにと等価と思うかは人それぞれですからね」

 綺麗な笑みに心の臓を掴まれる。

「あたし、影さんの、一瞬が欲しい」

 影さんは目を見開いたまま動きを止めた。

「欲しい」

 頬にあてられた手を包んで、そして見上げる。

 見上げた彼の表情は影になっていて見えない。

「主の影が、主と同じ港で休むのも……一興かもしれないですね。でも、あなたと家庭を築くことは、私にはできない。かまいませんか?」

「主が一番なのは……お互い様かも」

 あたしは、影さんを見上げてへにゃりと笑う。

 影を踏んで、影を渡って、主を支えることで生きているあたしたち。




 浅沼文という一世を風靡した女性画家は、未婚のまま生涯を終えた。

 彼女の傍らには少数ではあったが、彼女を大事にする人々に溢れていた。特に親友であると文本人が認めている女性は、自分の子、孫と共に文を支え……さらに彼女の子供が画家として羽ばたくのを後押しし続けた。

 ただ、不思議なことに、彼女の名前も、子供たちの名前も……どこにも残されていなかった。


 画家の浅沼文の出資者であると囁かれていた紀勢家の御曹司は、没するまで家庭を持つことはなかったという……

 秘書の男と常に行動を共にし、女性に興味がないのではないかと揶揄されていたが、晩年、血族の子を養子に迎えた。紀勢家に迎えられたその養子は、御曹司の若い頃に、とてつもなく似ていたという。





 影踏み、影渡り






―――了―――



ご無沙汰をしております……

お知らせなどありますので、よければ活動報告もご覧頂けたら嬉しいです。

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