おはようのキス
おやすみを言って春乃さんは自分の部屋に戻った。
私も自分にあてがわれた部屋のベッドに入る。
しかし、いくら待ってもだめだった。
「……眠れない」
思えばここ数日、本当にいろいろな出来事があった。両親の事故、前世の記憶、春乃さんとの出会い……そのどれもが私にとっての一大事だった。
前世の記憶を取り戻して良かったと思う。考えるべきことが他に出来たお陰で、ここ何日間かあらゆる不安を忘れることが出来た。
ここへきて眠れないというのは、ようやく落ち着いて物事を考える余裕が出てきたということだろう。そのこと自体は喜ばしいが、眠れないのは頂けない。
こういう時、以前の私ならどうしていただろうか。
少し考え、私は本棚から一冊本を抜き取ると、足音を忍ばせつつ春乃さんの部屋に向かった。
◇◇◇
ドアの隙間から覗き込むと、春乃さんはベッドの上で携帯とにらめっこをしていた。白い光に照らされた感情のない表情。私の知らない顔だ。きっと私が来る前からこうだったに違いない。
「……夏樹?」
私に気づくと春乃さんは携帯を置いてこちらを見た。そのまま何も言えずにいると、春乃さんは手元にある本の存在に気がつき、合点がいったように言った。
「絵本、読んで欲しいのか?」
うんと頷く。
「おいで」
手で示されたようにベッドの春乃さんの隣に座る。
照明の明るさをリモコンで控えめに調節すると、春乃さんは私の隣に座って絵本を読み始めた。
「『眠り姫』……か。懐かしいな」
◇◇◇
絵本を読み終わっても私はまだ春乃さんの隣にいた。
「今日はここで寝るのか?」
頷くと、春乃さんは止めはしなかった。
そのまま照明を消し、二人でベッドに潜る。
暗闇の中で私は思わず春乃さんの手を握った。
「どうした?」
「春乃さん……考えが止まらないの。『眠り姫』は百年の眠りの後に王子様のキスで目を覚ますんでしょう?」
「ああ、まぁ本によって若干の違いはあるけど……」
「そういうことじゃないっ」
「ス、スミマセン……」
わがままな子供みたいになってしまった。
春乃さんが余計なことを言うからだ。
「でも、もし王子様が来なかったら、眠り姫はずっと眠ったままなの? 眠り姫は目覚めなきゃならないのに」
「……夏樹」
「私の尊敬する小説家も同じことを言っていたわ」
「小説家? やっぱり夏樹は物知りだな」
春乃さんは感心したように身じろぎをした。
そして私の手をぎゅっと握り返し、こう続けた。
「朝になったら私が起こしてやる。百年経つ前に」
「本当? 信じてるわ、春乃……」
瞼が降りてきた。きっと朝はもう近い。
そう思い、ようやく私は眠りについた。
◇◇◇
目が覚めると隣には春乃の吐息があった。
「キス……した?」
返事はない。
かと言って、確かめようもない。
洗面所で顔を洗いながら考える。
歯磨きをすませ、手ぐしで髪を整え終わると、急いで私はもう一度春乃のベッドに潜り込んだ。
ほどなくしてから彼女が目を覚ます。
「起きろ、朝だぞ……おい、夏樹……?」
春乃はぴくりとも動かない私の前髪に触れ、ため息を吐くなり私の耳元で囁いた。
「……ちょっと濡れてる」
チュッ。
「……何でほっぺたなのっ!?」
「子供にはまだ早い。ほら、朝ごはん食べに行くぞ?」
「春乃〜〜……ッ!!」
◇◇◇
朝食の席で出し抜けに春乃は言った。
「そろそろ学校の準備もしなくちゃな」
…………え、学校?
次は六時ごろの予定です。