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0 二十日前のさらに七日前のこと

「なかったことに……?」


 グラス男爵令嬢ユリエラは、呆然と呟く幼馴染みの手から湯気の立ち昇るティーカップを取り上げた。

 その上で、口にしたばかりの台詞を分かりやすい言葉に置き換える。


「お別れしたってことよ」

「おわかれ……てそんなまさかっ!」

「声が大きい!」


 それが当然の反応で、噂はあっという間に広がるとしても、ユリエラとしては積極的に喋って回りたい話ではない。

 ユリエラと自身の婚約者の両方から睨まれ、スカイナル子爵令息アイザーはバツが悪そうに口を噤んだ。


「ねえ、どういうこと? 急に何があったの?」


 アイザーに代わって声を潜める優しい友人に、ここはなんと返すべきか。


「婚約していたのでしょう? ご両親はなんて?」


 結婚や婚約は家同士の契約だ。一度縁を結んでしまうと少々のことでは決別できない。


 ―――結んでいたならね、そうなんだけど。


 ユリエラに足りなかったのは、将来について真剣に向かい合う姿勢と誓約書へのサインだ。


「私たちの婚約は二人の口約束というか、よくよく考えると約束した覚えもないというか……」


 苦笑いで誤魔化しながら、そう白状した瞬間。

 ユリエラの心優しい友は、そのたおやかな容貌から想像もつかない俊敏な動きで、鷲掴みのマカロンを婚約者の口に突っ込んだ。

 叫び出す前に手を打たれたアイザーが、喉を詰まらせて撃沈する。




 彼らは今、とある茶会の真っ最中である。

 未来ある若者に交流の場をと、篤志家の伯爵夫人が定期的に開く茶会には、生きるために自ら考え、行動する必要に迫られた下級貴族の子息子女ばかりが招待されている。


 現実的で有意義な情報を交換するための場において、前回まで、ユリエラの隣で踏ん反り返っていた男の名はユージン=ロックバーン。

 彼こそが、十年近くも不毛な関係を続けた相手である。


「婚約中と思われていても仕方がないわ。どちらの家も打算があって黙認していたわけだし、誤解しか招かない態度だったし、当事者の私もそう思っていたくらいだし……」

「ユリは跡取り娘で、ユージンは子爵家の嫡男だもんなぁ。そこのところは俺も気になってたけど、それならそれで、もっと早くに行動すべきだった」

「ねえアイザー、口の端にクリームが―――」

「お前が気にすべき問題はそこじゃない!」


 勢い余ってユリエラを叱りはしたが、アイザーの怒りの矛先は完全にユージンの方を向いている。

 十年は長い。

 ユリエラが社交の場に出ることは滅多になかったが、たまの機会には必ずユージンが隣にいた。時には腰を抱き、親密な雰囲気を撒き散らして、二人は間違いなく結婚するのだと周囲に印象付けた。

 それが今さら、というわけだ。


「ちゃんと考えなかった私が悪いのよ」

「ユリに非がないとは言ってない。でも、こんなことになって苦境に立たされるのは全面的に女の方だ。俺たちはもう十八なんだぞ」


 貴族社会で十八歳といえば、どんな身分のお嬢さまだって結婚に焦り始める頃である。

 まして、グラス男爵家にあるのは爵位だけ。

 せめて本人の評判くらい良くなければ、領地を持たない底辺貴族に婿入りしたがる奴はいない―――そこまで歯に衣着せず言ったアイザーの口を、特大級のスコーンが容赦なく塞いだ。


「ほごぉっ!」

「別れるという、その理由は?」


 犯人はもちろん、アイザーが溺愛する彼の婚約者さまだ。

 手についたスコーンの粉を払いながら沈痛な面持ちを浮かべる未来の子爵夫人に、二人が築く温かな家庭を想像したユリエラは本気の苦笑いを浮かべた。


「ユリ?」

「ああ、ごめんね。ユージンの話よね」


 同情を寄せられるほどの痛みもなければ悔しさもない。ましてや未練なんて一度も出番がなかった。

 別れて数週間、ユージンは今やすっかり過去の人だ。

 そんな調子だから、ユージンが残した非難必至の言い分も、隠さず濁さず躊躇いなく口に乗せることができた。


「トキメキが欲しいんですって」


 仲の良さを示すように、婚約者たちはそろって動きを止める。


「ときめき?」

「そう、トキメキ。胸がキュンなトキメキをくれた人に誤解されたくないから、私とは縁を切るって」

「胸がキュン……? いいえ、それより誤解というのは?」

「真実の恋は胸がキュンとなるんですって。誤解は……つまり、キュンとしたい相手じゃなかったということよね、私が」


 ユージンと共に過ごした長い年月で、特に記憶に残るような思い出はない。

 ところが、夢見る乙女でさえ裸足で逃げ出す悩ましい台詞を吐き、うっとりと目を細めた姿だけは、呪いの如くユリエラの脳裏に焼き付いていた。


「運命の恋人なんだって、空に向かって叫んでいたわ」


 真実の愛ではなく、恋。

 そこがいかにもユージンらしいと思うのだが、微笑ましく感じるのはユリエラだけのようだ。


「……何を寝ぼけたことを」


 グシャリと聞こえた妙な音に目をやれば、優しい―――はずの友人の両手から、結構な量のスコーンの残骸がドレスにこぼれ落ちるところであった。

 大きな欠片から小さな粉末まで見せつけるように落としながら、首から上は慈愛に溢れた微笑みをたたえている。

 ただし、茶色い双眸に灯る光は不穏そのもの。ピンク色の唇が何を紡ぐのか、ユリエラはごくりと唾を飲んだ。


「ねえ、アイザー。あなた、ユージンとお友達だったわね?」

「し、強いて言うなら……そうかも?」

「不貞を見逃したなんてこと、もちろんないわよね?」

「待て、待て待て!」

「この落とし前、どうつけてもらおうかしら?」

「とりあえずアイツだ、アイツに聞いてみよう!」


 婚約者の追及から逃れるように、アイザーの指は空中で細かく動き、小さな陣を描く。

 簡単な呪文を口にして、作業はすぐに終わった。

 風が吹くわけでも音が鳴るわけでもないが、ささやかな魔力に呼応して陣が光ったのをユリエラの目は見逃さない。

 何もない空間から白い蝶が現れる。

 試すようにその場で二、三度羽を動かし、やがて、鱗粉を振りまきながらテラスの先に消えていった。


伝獣(でんじゅう)を使ってまで……セーラスを巻き込むことはないでしょ!」


 鳩の足に恋文を結び、想い人へと飛ばした時代から人々の意識はあまり変わっていない。

 本物の鳩を飛ばさなくなった今も、遠く離れた相手に用があるときは空を飛ぶ生き物を魔術で編み出し、声を託す。

 伝獣とは、その擬似動物のことである。


「アイツなら何か知ってるかもしれないだろ!」

「研究棟に監禁状態で、いつ知ることができるって言うのよ!」


 伝獣の姿形はピンからキリまで千差万別だ。

 しかも、何を模すかによってあらかじめ言葉数が決まっている。

 より正確な文章を期待するなら、それなりの魔力と引き換えに大型の鷲などが適しているのだが。


 いかんせん、アイザーの伝獣は蝶。

 端的な伝言が招くいらぬ混乱は想像に易い。


「こんなことでセーラスの手を煩わせないで!」

「双子だからこそ通じるものがあるはずだ!」


 そんな馬鹿なと言い返したところで、アイザーの興味はすでに次へと移っていた。

 ユリエラを置き去りに、婚約者たちは何やら深刻な様子で話し合っている。


「ユージンめ、馬鹿だ馬鹿だと思っていたが」

「あの方のお耳に入ったら無事の保証はないわね」

「だよなぁ。しかも絶対、近いうちに耳に入る」

「楽しみだわ。私、不誠実な殿方がこの世で一番大嫌いなの」

「……ああ、うん、そう」

 

 甘いマスクで女性受けするアイザーは、しかしながら、婚約者の尻にとっくに敷かれているようだ。

 この二人ならきっと大丈夫。

 ユリエラは、平穏そのものの気配にスカイナル子爵家の安泰を確信した。

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