五本場49
本格イタリアンを堪能し、中野はボードにクリップされている伝票を持ってレジへと向かった。元々閉めていた為か他に店員はいないようで、マスターが直接レジに立った。
「奥さんは?」
「カラオケ行っちまったよ。まあ元々閉めてたからね」
「すいませんね無理言っちゃって。これ、お釣りは結構ですから」
七海は既に外に出ており、中野が会計をしている様子を遠巻きに見ていたが、中野は五千円札を手渡してお釣りをもらっている様子がなかった。
中野が鈴を鳴らしながら外に出て来た。
「ありがとうございます……」
「いやなに……」
二人は何と言うでもなく、一緒に夕日の射し込む商店街を歩き出した。
「私は、正直あなたに勝てない事が悔しかった。いえ、対局の結果だけなら私が勝つ事ももちろんありますけど、それ以外の……そう、単なる技術だけではなくて人と人とが向かい合って勝負している、という部分で特に」
歩きながら、不意に七海が話し出した。
「でも今日の結果に私は満足しています。結果は引き分けでしたけど、実質私の勝ち……で、好いんですよね?」
「ああ、少なくとも俺は勝ってない。今日の勝負は及川の勝ちさ」
「……地区予選を前にいささか不安でしたけど、少し自信がついた気がします。ありがとうございます」
「礼を言われるような事はしてないさ……ま、及川が喜んでくれているのなら、それで好かったよ」
「……以前にもこうして雨上がりに話をしていた覚えがあります」
「あの時は正直焦ったよ。いきなり泣き出すからな」
「う……それは言わないで下さい」
「そうだ、傘を渡すの忘れてたよ」
中野は勝負の前に渡そうとしていた傘を七海に差し出した。七海はそれを受け取った。
「……雨は上がったので、もう傘を差さなくても大丈夫です」
「そうか、それは好かった」
そう、雨は上がったのだ。重く張り詰めていた雲は晴れ、陽光が射し込み、雨に洗われた空気はいかにも清々しい。
七海は今この瞬間の心境を忘れまいと、この清々しい空気を胸一杯に吸い込むのであった。




