牛人間
迷宮。これは巨大な一つの生命体である。幾多に分岐する道で中に入った人や動物を迷わせ、また、内部に生み出した魔物に襲わせる。それによって力尽き、生き絶えた生物が体内に保有する生命エネルギーを吸収し、それは成長するのだ。
迷宮には自然発生と人工創造の2通りの物が存在する。
まず、自然発生の迷宮は、盆地や鉱石の採掘場などの他の場所に比べて魔素が溜まりやすい場所に生まれる。
一定の場所に留まり続けた魔素は具現化し、いくつも枝分かれをしながら次第に地に根を張るように成長。ある程度大きくなるまで成長し続ける。
その後、迷宮の中でも特に魔素の溜まりやすい最深部などの場所が魔素の圧力によって押し広げられ、そこに溜まった大量の魔素からその迷宮の主のような魔物を。また、通路にある薄い魔素から雑魚の魔物を、それぞれ生み出す。
これらの行程が完全に終了することで初めて迷宮の中に侵入できるようになるのだ。
とは言っても実のところ、迷宮が完成するまでに侵入するのは必ずしも不可能ではない。
しかし、迷宮の付近は魔素によって空気が押し出されているため、生物がそのまま放り込まれると窒息して死に至ってしまう。
酸素ボンベなどを背負って入れば入れないことはないが、あんな重いものを持って魔物と対峙するなどもっての他なので、実質、侵入は不可能というわけだ。
次に、人工創造の迷宮だが、これも基本的には自然発生のものと相違ない。
違いは、地中に魔法処理によって強化済みの分厚い鉄板でできた巨大な水槽を予め埋めておき、迷宮の発生範囲を限定することができる点だ。
こうすることで、近辺の街への魔物による被害を縮減、また、迷宮を安全に管理し経営することなどを可能とする。
この迷宮の管理というのは、日本でも珍しくない。
経営に成功した最たる例は、霊峰富士に自然発生した迷宮だ。
ここで迷宮が発見された当初、世界遺産に登録された影響で得ていた観光客の離散が懸念されたが、迷宮が成長の初期段階である時点での発見だったので、これを囲む水槽を後から埋め込み、管理することに成功する。
それ以降、観光客と冒険者が大勢詰め寄せる、世界有数の都市となったのだ。
兎に角、以上2つがこの世界に於ける迷宮という存在である。
「ここが迷宮? でも、いきなり牛人間が出てくるなんておかしいだろ! コイツは普通、もっと後だろ!?」
牛人間。体長2メートル強の人型魔物である。
筋骨隆々のこの黒毛の魔物は、その名の通り牛の頭を持つ。
昴の言う通り、ミノタウロスの討伐は冒険者の最初の難関とされ、基本的にはどんなに小さな迷宮でも中ボス的存在として現れるのだ。
大抵は片手に巨大な棍棒を携え、それを振り回して攻撃してくる。ときには、棍棒を両手に握りしめていたり、大剣を背負っていたりする。
臭く白い息を吐き出し、部屋に佇むこの魔物は、駆け出し冒険者の出鼻を挫く魔物であるが、ここを突破すれば次の難所までは比較的スムーズに進められる。
しかし、冒険者に次などはない。ここで言う‘‘出鼻を挫く’’というのは、挫かれた人間の死を意味するのだから。
「だって、‘‘生命の泉’’が最深部だから」
「え、じゃあ……」
「そう。ダンジョン逆走攻略よ!」
いきなり‘‘生命の泉’’に入り込んでしまったために、通常有り得ない状況に陥ってしまったことに気付かされた昴。突然の異常事態ではあるが、ここを抜けるにはミノタウロスを倒す他に生きる術など有りはしない。
もし逃げようにも、足の長い相手の方が移動は速く、何か策を弄しようにも、そもそもこの魔物の前で冷静にものを考える余裕などできよう筈もないのだ。
さらに、昴には迷宮探索の経験が全く無い。つまり、ミノタウロスとの戦闘経験も無く、なおのこと戦闘を避ける方法など考える余地もなくなるということだ。
昴は顔をバシッと叩いて気合いを入れ、これから起こる激闘に備える。
「ウォオオオオオン!」
地を揺るがす2度目の咆哮。これを皮切りに、腰を落としたミノタウロスが頭角をこちら向けて一気に走り出した。
魔術師の攻撃手段は当然、魔法。遠距離攻撃が多い魔法の効果を十全に発揮するため、敵との距離を取ることは何よりも重要なことだ。
そこで、兎に角ミノタウロスから離れようと駆け出す昴。
しかし、ミノタウロスのその巨体に見合わない移動速度によってあっという間に詰め寄られ――――
「ぅぐっ!」
ギリギリ反応して避けたものの、脇腹を軽く抉られ、服に血が滲み出てきた。
勢い余って壁に衝突しようとしているミノタウロスに向けて反撃。
「燃え盛れ! 〈火焔〉!!」
手の平から生まれたドッジボール大の火球はミノタウロスが居た場所に直線的に飛び、掠りもせずに壁に当たって消えた。
昴からの攻撃を気にも留めないミノタウロスは壁を蹴り飛ばして急激に方向転換。再び昴に迫る。
「今度は当てる! あらゆる攻撃を焼き落とせ! 〈火焔壁〉!!」
初級火魔法〈火焔壁〉。本来、矢などの可燃性の飛び道具による攻撃を防ぐ、2.5メートル四方の防御壁を作り出す魔法である。しかし、昴はこれを攻撃魔法として応用。ミノタウロスの移動方向に設置して突っ込ませようと考えたのだ。
「ウゴォオオオオオン!!」
昴の目論見は成功し、ミノタウロスは火の壁に突っ込んだが、相手を苛立たせただけで、攻撃が効いた様子は見て取れない。
「凍り付け! 〈凍結〉!!」
続いて放つは初級氷魔法〈凍結〉。発動と共に部屋の温度が急に下がり、ミノタウロスの体表は凍って白くなる。
それでもミノタウロスの鋼鉄のごとき強堅な表皮を前に、この程度の魔法に効果は見られない。
強大な敵との戦闘では賭けに出られなければ弱者に勝利は有り得ない。
これならどうだ!と昴はこれまでに放ったものより一段階上の中級魔法を発動する。
「火の精霊よ 灼熱の炎を巻き起こし 我が仇敵を灰塵に帰せ! 〈焼尽〉!!」
……………………。
「くそっ!」
死の瀬戸際に立たされても奇跡は都合良く起きてはくれない。奇跡は簡単に起きないからこそ奇跡なのだから。
続けて魔法を放とうとするも、今度は石でできた棍棒を風を切る轟音と共に降り下ろされる。
近くに迫った棍棒に〈火焔〉を当て、反動を利用し、紙一重で避けることに成功。
しかし、避けられたのは初撃のみで、追撃を咄嗟に左腕で受け。
ベキョッ
と、鳴ってはならない音が鳴り、いとも簡単に腕が押し潰された。
「ぁがあああ!」
へし折れた腕の激痛で意識が今にも飛びそうになっている昴に対し、ミノタウロスは空いている左手で裏拳をかます。
「がはっ!」
昴は為す術無く壁に叩き付けられ、大量の血を吐いた。
首の皮一枚繋がった意識を気合いで保ち、ミノタウロスを見上げ、背筋が一瞬にして凍りついた。
ミノタウロスの目を見て、昴は本能的に悟ったのだ。
俺はコイツの敵じゃない。食料ですらない。ただ何となく。そう、目の前に居たから何となく殺そうとしているのだ。俺はコイツの暇潰しの玩具でしかないのだ。これは殺し合いではなく、一方的な蹂躙劇でしかないのだ、と。
昴は嫌という程、理解させられた。
竜から逃げてギリギリ繋いだ命。しかし、この牛人間にとってそのようなことは殺戮を躊躇する理由にはならない。
地面をしっかり踏み締め、歩み寄る死神は、死の恐怖に打ち震える昴を嬲る快感を、じっくりと味わうように。そして、できる限り長い時間楽しむために、名残惜しそうにしながらも棍棒をゆっくりと着実に。時間をかけて掲げていく。
(死にたくない)
潰れてしまった左腕をぷらーんとぶら下げながらも壁を頼りに立ち上がろうとする昴。その間も決してミノタウロスの目から視線を外さない。
(死にたくない。死にたくない)
人は危険を感じると、周囲の動きが遅く見える。引き延ばされた時の中。蔑み、嘲笑うような目を向ける敵が目に映る。
(死にたくない。死にたくない、死にたくない)
血を失い過ぎた身体は冷え始め、すぅーっと頭が冴え渡る。
命の危機にも関わらず、不思議な程冷静になる自分に特に疑問を持たず、ただひたすらに請い願う。
(死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない……)
しかし、無情にもその時間はやって来た。
ブゥオオオオオン!
ついさっきまで蛞蝓の動きよりも遥かに遅く流れていた時は急速に動き出し、死へのカウントダウンが何処からともなく聞こえてくる。
(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…………生きたい……だから……)
勢い良く降り下ろされた棍棒は真っ直ぐに昴の脳天へと向かい、そして。
「――――殺す」
瞬間。
ドゴォォォォォォオオオオオオオオオオオオオンッッ!!!
凄まじい轟音。地を揺るがし、空間を震わす激音。昴を中心に鳴り響く。
この爆音はミノタウロスが放ったものでは無い。昴が生を渇望し、本能的に、そして無意識に放ったものである。
同時に炸裂した衝撃は前方の敵を木っ端微塵に爆砕し、後方の壁も深く抉り取った。
多量の出血に加え、衝撃で内臓もグチャグチャになり、壁に体を預けて項垂れる昴の周囲には大きな血の池が出来上がった。
続けて、プツリと糸が切れたように意識を失う昴。
こうして唐突に戦闘が終わり、部屋には静寂が訪れた。