3.鬼頭課長とお出掛けする事情(2)
ガコ、ガコン、と音を立てていちごミルクが落下する。自販機から紙パックを取り出す。
もうひとつ、と思ったら、タイミングが遅かったのか、お金が出てきてしまった。仕方なくおつりコーナーから硬貨を取り出し、百円玉を二枚、追加する。
いちごミルク、いちごミルク。
指先がボタンに触れる。
「ねえ、知ってる? 鬼頭課長の噂」
(またかー!)
思わず心の中で叫ぶ。なんというタイミングだろうか。頭を抱えたくなる。
知ってる知ってるー休日にさー、とまるで定文のように続いていく言葉たち。
その最後に。
「それってー、雉島さんとじゃなくて?」
「違うみたいだよー」
息を呑んだ。
「え……」
漏れ出た音は、彼女たちには聞こえなかったらしい。それは、果たして幸運だったのか。
私の時間が止まっても、世界は動いている。
「なんにせよ雉島さんと比べられるってキツイよねー」
「ね。まあその子は雉島さんのこと知らないんだろうけどさぁ」
──声が遠い。
「でもさ、あの二人って実際今どうなんだろうね」
「同じ部署にいて差し支えないってことは──」
遠いのに、近い。
私は、視線を落とし──チャリ、という音を拾う。自販機に入れた二百円がそのまま戻ってきた。それを引っ手繰るように取り出すと、慌てて自分のデスクまで戻る。
机に手をついた。ここに辿り着くまでの時間が、長かったのか短かったのか、感知できない。──何故自分がこんなにも狼狽えているのかも。
「柚月、いちごミルクは買えた?」
「き、きじま、さ……」
明るく、適度なユーモアを持った性格。嫌味の無い顧客対応。何を取っても、尊敬していて。だから、……だから。だけど。
どうしたよ、と笑うその顔を、見ていられなかった。
「──いちごミルク」
「うん?」
「買えたんですけど、気分悪く、なっちゃって。私、飲めそうもないので、……雉島さん、どうぞ」
「お……? どうした、本気で顔、青いけど」
伸びてきた指先から、逃げるように身を引いた。
「っ、少し休んでいれば、治ると思うので。休憩してきます」
目を合わせたら、伝わってはいけない何かが伝わってしまうような気がした。紙パックを押し付ける。指先が触れて、その温かさに泣きたくなる。
何から考えるべきなのか、分からない。
そもそも、何故動揺しているのか。
それすらも今は考えたくなくて。
自分はこんなにも、不安定だっただろうか。
たかがこれっぽっちのことで使い物にならなくなるような、弱っちい人間だっただろうか。
『よろしくな』
その微笑みが自分以外に向けられていた事実が、こんなにも────
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結局私のその後の行動は、いかにも子供っぽい、それでいてずる賢い大人のものだった。
「きゃん!」
静かに部屋を後にしようとする私に対して、チャコが鳴く。行かないで、という声に「ごめんね」と口にする。ちゃんと付き合うって言ったくせに、ごめん。ごめん。……ごめん。
以前ならばその声ひとつで、鬼頭課長が戻るまでは待ったものだが、今は課長と顔を合わせたくない。
忙しい時期が近付くにつれて、止むを得ず増えてきた“依頼”には応えるけれど、接触は断つ。無論仕事上では話をするが、それだけ。最低限のやり取りのみ。それを責めることはできないだろう──私が踏み込めない理由と同じく、あちらにだってその権利は無い──。
扉を閉めて、鍵をかける。
この鍵を郵便受けにでも入れておけば、それだけで終わるはずだ。けれど、それはできなかった。
“流石に上司相手にそんなことをしたら、仕事上で支障が出るから”。
それがただの言い訳だということは、薄々分かっていた。明確な言葉にすることから逃げているだけで、本能的に理解はしているのだ。
「……なにしてんだか」
自嘲する。嗤う対象を明確にしない狡さに、目を瞑りながら。
私はマンションに背を向けた。
そんな風に過ごして迎えた土曜日は、程々に最悪な気分だった。
もう半月前になるか、あるいはもっと前か。手帳を開くことも億劫で、脳内だけで結論を出す。確か三週間ほど前のことだ。
“噂”の続きを聞いて以来、決まって土曜日に来る散歩への誘いのメールを断り続けている。
とうとう今日はメールすら来ない。……断り続けているのだから、当然か。当然なのに傷付く自分は、あまりに勝手過ぎると思う。それを誤魔化すように、しょうがないよ、と笑う自分は滑稽で、愚かだ。
布団の中で、くるりと方向転換。寝返りを打ち、掛け布団を抱き締める。
「……………………だああああ!」
勢いを付けて起き上がる。
「駄目! このままじゃ腐る!」
盛大過ぎる独り言を結構な声量で叫ぶと、そのまま起き上がり、まるで親の仇のように布団を思い切り蹴──ろうとしたが、皺になりそうだな、と冷静になって丁寧に畳み直した。ほら、寝るのは綺麗な布団の方がいいじゃない?
洗濯機を回し、朝食をとり、洗濯物を干し、着替える。ぱん、と頬を叩いた。
憂鬱な気分に覆われそうな時は、まず外に出てみるべし。そうでないと本当に光を感じられなくなってしまう。
車に乗る気分では無かったので、歩いて出発する。アテもなく歩き続け、辿り着いたのは近所とは言い難い、広めの運動公園だ。
いくつか準備されているベンチに腰掛けて、息を大きく吸い込む。
穏やかな場所にいると、思考回路が緩やかに動く。
何故、自分の気持ちを認めることができないのか。
静かに、問い掛ける。
きっとその理由は、ひどく単純なことだ。
自分が臆病なだけなのだ。
隣に立つ自信が無い。
『なんにせよ雉島さんと比べられるってキツイよねー』
……うん。嫌だよ。雉島さんよりも誇れるものなんて何も無いのだから。
比べた時に残るものなんて、ちっとも思いつかないから。
勝てないのであれば、認めた時に待つのは苦しみだけではなかろうか。
ソレは幸せだけでは成り立たない。
独占欲から始まる数え切れない欲望たちを携えて、キラキラ光る舞台に立つ。綺麗なのに醜い。一人で踊れば、余計に虚しさが増すそこは、時に狂気じみている。まるで鋭利な刃物のように、私を突き刺すだろう。
──それならば、降りてしまえばいいのに。
それだけの話だ。
そう思うのに、一度立ってしまえば、そんなことすら満足にできない。みっともなく縋ってしまう。
だから、怖いのだ。
こちらの思考を停止させるようなあの微笑みが、自分に向けられたらどんなに嬉しいか、なんて。想像したら、おそらく駄目になってしまう。
「トチ狂うな、私。アレは鬼だぞ。退治する相手なんだから」
だからそんな風に、言い聞かせるしかないのだろう。
静かに呼吸する。この気持ちが暴走しないように、鍵をかけた。
──そうやって無理に閉じ込めている時点で、もはや抑えられるものでもないとわかっていながら。
強くなくて、ごめんなさい。