表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/16

3.鬼頭課長とお出掛けする事情(2)

 ガコ、ガコン、と音を立てていちごミルクが落下する。自販機から紙パックを取り出す。

 もうひとつ、と思ったら、タイミングが遅かったのか、お金が出てきてしまった。仕方なくおつりコーナーから硬貨を取り出し、百円玉を二枚、追加する。


 いちごミルク、いちごミルク。

 指先がボタンに触れる。


「ねえ、知ってる? 鬼頭課長の噂」


(またかー!)

 思わず心の中で叫ぶ。なんというタイミングだろうか。頭を抱えたくなる。

 知ってる知ってるー休日にさー、とまるで定文のように続いていく言葉たち。


 その最後に。


「それってー、雉島さんとじゃなくて?」

「違うみたいだよー」



 息を呑んだ。



「え……」

 漏れ出た音は、彼女たちには聞こえなかったらしい。それは、果たして幸運だったのか。

 私の時間が止まっても、世界は動いている。


「なんにせよ雉島さんと比べられるってキツイよねー」

「ね。まあその子は雉島さんのこと知らないんだろうけどさぁ」


 ──声が遠い。


「でもさ、あの二人って実際今どうなんだろうね」

「同じ部署にいて差し支えないってことは──」


 遠いのに、近い。

 私は、視線を落とし──チャリ、という音を拾う。自販機に入れた二百円がそのまま戻ってきた。それを引っ手繰るように取り出すと、慌てて自分のデスクまで戻る。


 机に手をついた。ここに辿り着くまでの時間が、長かったのか短かったのか、感知できない。──何故自分がこんなにも狼狽えているのかも。


「柚月、いちごミルクは買えた?」

「き、きじま、さ……」


 明るく、適度なユーモアを持った性格。嫌味の無い顧客対応。何を取っても、尊敬していて。だから、……だから。だけど。


 どうしたよ、と笑うその顔を、見ていられなかった。


「──いちごミルク」

「うん?」

「買えたんですけど、気分悪く、なっちゃって。私、飲めそうもないので、……雉島さん、どうぞ」

「お……? どうした、本気で顔、青いけど」

 伸びてきた指先から、逃げるように身を引いた。

「っ、少し休んでいれば、治ると思うので。休憩してきます」

 目を合わせたら、伝わってはいけない何かが伝わってしまうような気がした。紙パックを押し付ける。指先が触れて、その温かさに泣きたくなる。


 何から考えるべきなのか、分からない。

 そもそも、何故動揺しているのか。

 それすらも今は考えたくなくて。


 自分はこんなにも、不安定だっただろうか。

 たかがこれっぽっちのことで使い物にならなくなるような、弱っちい人間だっただろうか。


『よろしくな』


 その微笑みが自分以外に向けられていた事実が、こんなにも────



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 結局私のその後の行動は、いかにも子供っぽい、それでいてずる賢い大人のものだった。


「きゃん!」

 静かに部屋を後にしようとする私に対して、チャコが鳴く。行かないで、という声に「ごめんね」と口にする。ちゃんと付き合うって言ったくせに、ごめん。ごめん。……ごめん。

 以前ならばその声ひとつで、鬼頭課長が戻るまでは待ったものだが、今は課長と顔を合わせたくない。

 忙しい時期が近付くにつれて、止むを得ず増えてきた“依頼”には応えるけれど、接触は断つ。無論仕事上では話をするが、それだけ。最低限のやり取りのみ。それを責めることはできないだろう──私が踏み込めない理由と同じく、あちらにだってその権利は無い──。


 扉を閉めて、鍵をかける。

 この鍵を郵便受けにでも入れておけば、それだけで終わるはずだ。けれど、それはできなかった。

 “流石に上司相手にそんなことをしたら、仕事上で支障が出るから”。

 それがただの言い訳だということは、薄々分かっていた。明確な言葉にすることから逃げているだけで、本能的に理解はしているのだ。


「……なにしてんだか」

 自嘲する。嗤う対象を明確にしない狡さに、目を瞑りながら。

 私はマンションに背を向けた。



 そんな風に過ごして迎えた土曜日は、程々に最悪な気分だった。

 もう半月前になるか、あるいはもっと前か。手帳を開くことも億劫で、脳内だけで結論を出す。確か三週間ほど前のことだ。

 “噂”の続きを聞いて以来、決まって土曜日に来る散歩への誘いのメールを断り続けている。

 とうとう今日はメールすら来ない。……断り続けているのだから、当然か。当然なのに傷付く自分は、あまりに勝手過ぎると思う。それを誤魔化すように、しょうがないよ、と笑う自分は滑稽で、愚かだ。

 布団の中で、くるりと方向転換。寝返りを打ち、掛け布団を抱き締める。


「……………………だああああ!」


 勢いを付けて起き上がる。

「駄目! このままじゃ腐る!」

 盛大過ぎる独り言を結構な声量で叫ぶと、そのまま起き上がり、まるで親の仇のように布団を思い切り蹴──ろうとしたが、皺になりそうだな、と冷静になって丁寧に畳み直した。ほら、寝るのは綺麗な布団の方がいいじゃない?


 洗濯機を回し、朝食をとり、洗濯物を干し、着替える。ぱん、と頬を叩いた。

 憂鬱な気分に覆われそうな時は、まず外に出てみるべし。そうでないと本当に光を感じられなくなってしまう。



 車に乗る気分では無かったので、歩いて出発する。アテもなく歩き続け、辿り着いたのは近所とは言い難い、広めの運動公園だ。

 いくつか準備されているベンチに腰掛けて、息を大きく吸い込む。

 穏やかな場所にいると、思考回路が緩やかに動く。



 何故、自分の気持ちを認めることができないのか。



 静かに、問い掛ける。

 きっとその理由は、ひどく単純なことだ。


 自分が臆病なだけなのだ。

 隣に立つ自信が無い。


『なんにせよ雉島さんと比べられるってキツイよねー』


 ……うん。嫌だよ。雉島さんよりも誇れるものなんて何も無いのだから。

 比べた時に残るものなんて、ちっとも思いつかないから。


 勝てないのであれば、認めた時に待つのは苦しみだけではなかろうか。

 ソレは幸せだけでは成り立たない。

 独占欲から始まる数え切れない欲望たちを携えて、キラキラ光る舞台に立つ。綺麗なのに醜い。一人で踊れば、余計に虚しさが増すそこは、時に狂気じみている。まるで鋭利な刃物のように、私を突き刺すだろう。


 ──それならば、降りてしまえばいいのに。

 それだけの話だ。

 そう思うのに、一度立ってしまえば、そんなことすら満足にできない。みっともなく縋ってしまう。


 だから、怖いのだ。


 こちらの思考を停止させるようなあの微笑みが、自分に向けられたらどんなに嬉しいか、なんて。想像したら、おそらく駄目になってしまう。



「トチ狂うな、私。アレは鬼だぞ。退治する相手なんだから」



 だからそんな風に、言い聞かせるしかないのだろう。

 静かに呼吸する。この気持ちが暴走しないように、鍵をかけた。



 ──そうやって無理に閉じ込めている時点で、もはや抑えられるものでもないとわかっていながら。




強くなくて、ごめんなさい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ