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3.鬼頭課長とお出掛けする事情(1)

「お前……なんだその格好」

「完璧な変装です!」

 ロングスカートに涼しげなシャツを合わせ、カーディガンを羽織る、というシンプルながら清潔感のある格好に──サングラスにマスクを付けた上で、ぐっと握り拳を作る。

「その心は?」

「会社の人にバレるのは嫌です!」

「余計目立つわ、阿呆」

 でもサングラスとマスクに目がいって、顔は憶えられないと思うのですが、どうでしょう。


 これ以上の変装は無い!

 そう豪語していたが、怪しげな格好をした私を見たチャコが毛を逆立て怖がりながらキャンキャンと吠えるので、敢え無く断念した。

 子供には怖かったか。そうだよな。怪しい奴には相応の警戒心を。至極真っ当な反応である。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 お前が抱えていくか、という提案を、丁重に断る。抱っこしたいのはやまやまだけれど、今日はチャコにとって大事な日だ。数回しか会ったことのない私よりも、飼い主である鬼頭課長の方が彼女も安心するだろう。

 眉間のお皺様が、変な輩を撃退してくれるだろうし。

 なお、口にしたのは前半の理由だけである。後半など言おうものなら、撃退されるのは私だ。撃退は嫌だ。怖いよ!



「いーい天気ですねー」

 マンションから一歩足を踏み出すと、風が涼しい。散歩日和だ。

 チャコはといえば、やはり外が怖いのか、ひっしと鬼頭課長にしがみついている。

 きゅうーん、と不安そうに鳴くチャコの頭を撫でてやると、微かに尻尾が揺れた。


「ルートは決まっているんですか?」

「大体は」


 初めは車の少ない通りを歩くそうだ。

 公園などに進出するのは、もう少しだけ先。

 他の仔犬はどうか分からないが、チャコは外の世界に恐怖心を抱いている。何が駄目で、何が大丈夫なのかも分からない。だから徐々に慣れさせていく方針でいるらしい。


 この町の中心を大きな川が一本、横断している。今日はその端にある散歩道を歩くらしい。

 ランニングやサイクリングをしている人もちょくちょくいる。他の犬の散歩道でもあるが、この時間では数は少ないだろう。


 ゆったりとした足取りで川に沿って歩く。

 こんなにゆっくりと歩くのは久し振りかもしれない。チャコはまだじっとしている。まるで辺りを、そして鬼頭課長と私を窺うように。

 置いて行ったりしないよね、と。

 その瞳は訴えている気がする。


 チャコが捨てられていたのは、人為的なものだ。段ボールに彼女を入れて置き去りにすることは、人間にしかできない。


 大丈夫だよ、と言い聞かせても、なお彼女が怯えているのは。

 大丈夫だよ、と言われながら、捨てられたからなのかもしれない。


 どうしたら信じてもらえるのか分からない。


 ──きっと。

 きっと普通に散歩ができるようになっても、そこに確かな信頼関係が発生したとしても、この子の恐怖はこの先も消えることはないのだろうと思った。



 やり直しがきかないことは、この世の中にいくらでもあるのだから。



「その分、良いことがあるから」

 たくさんの良いことを見つけに行こう。

 小さく呟き、頭を撫でる。尻尾がまた、微かに揺れた。

 口元が緩む。


「……持つか?」

「うえ!? い、いいえ!」

 大丈夫です! と返事をして、一歩飛び下がる。そうだ──そうだよ! チャコに近付くということは、鬼頭課長との距離が縮まるということと同義だ。何故忘れていたのだろう。


「遠慮するな。というより、俺が歩き難い」


 言うなり、鬼頭課長は立ち止まり、チャコを私に押し付けた。慌てて受け取る。

 ぬくい体温が腕に伝わってくる。ふわふわの毛が、少しだけくすぐったい。


 チャコはしばらく、腕の中でごそごそと動いた。腕の位置を少し変えたり、頭の置き場を変えたり。──やがて納得のいく場所が見つかったようで、はふ、と鳴いた。

 鬼頭課長の腕の中とは違い、私の腕では少し大きさが足りないのだろう。ちま、と前足の先が飛び出している。


 あと、意外と重い。

 持っていて辛い重さではないけれど。

 むしろこれより軽いと、風に飛ばされるのではないかと不安になるかもしれない──そんなことはあるはずがないのだけれど──。


 気合いを入れて歩き始める。落とさないぞ、と再三言い聞かせながら。

 顔に出さないようにと、口を、むー、と結びながら歩いていたら、しばらくしたところで見かねた鬼頭課長に回収された。ああ、やっぱり分かりますよね。そうですよね。自分でも少し不安だったので……。


 見るからに中型犬、ないし大型犬に進化しそうな仔犬なので、抱っこして散歩するのは小さいうちだけになるのだろう。そう思うと、残念な気持ちにもなってくる。

 折り返し地点に来てしばらく、チャコはようやく落ち着いてきたようだ。家が近くなるにつれて、嬉しそうな雰囲気が強くなっていく。


 案の定、家に着いた時が一番嬉しそうだった。

 ぶんぶんと尻尾を振りながら、たったかと家の中を駆けるチャコを見、鬼頭課長と顔を見合わす。


「これは……抱っこ卒業、それなりに先になりそうですねー」

「……だろうな」

 お互い、先の長さを悟った顔だった。


 根気良く付き合っていくしかないのだろう。

 私はチャコの飼い主ではないが、乗り掛かった船だ。ここでハイサヨナラと去れる程、器用な性格はしていない。この際、どーんとこい!

 きゃん、とチャコが吠えた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



(とはいえ、会社で噂になるのは、なー)


 私の目が虚ろなのは、決して寝不足の所為でも仕事量が多い所為でもない。夜はたくさん寝たし、今時期に仕事量が多いのはいつものことだ。

 全ての原因は、先程食堂で小耳に挟んだ“噂”にあった。


『ねえ知ってるー? この前さぁ』


「…………っ!」

 思わず机に突っ伏す。

 最初に危惧していた通り、あそこは仕事場に近いのだ。不要な噂が立ちやすいことくらい、初めから分かっていた。

 分かっていたけれど、忘れていた。


 うああー、と無意味に唸る私に、雉島さんが「おー、どうしたよ、柚月」と揶揄(からか)い混じりに笑う。

「ど、どうも、してないです、けどー」

 ちら、と課長の席を見る。今日は出張で終日社内にはいない。夜も遅くなるらしいので、チャコの夕飯当番を頼まれていた。


「そういえばさぁ」

「あい?」

 顔だけをのっそりと持ち上げて、にやにやしている雉島さんに目を向ける。ああ、嫌な予感。


「天下の鬼頭課長が最近、女性と仲睦まじく歩いていたって噂になってるんだって」

「そ、そうです、かー」

「ところであんた、近頃妙に課長と──」

「いちごミルク! いちごミルク買ってきますね!」


 勘の鋭い雉島さんには、バレている気がしたが、しかしながら誤魔化さない訳にもいかず。

 私はこそこそと逃げることを選択した。




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