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2.鬼頭家に御宅訪問する理由(5)

「ご馳走様です!」

 ぽん、と手を合わせる。今日も美味でした。私よりも余程料理上手だ。畜生。

 仕事もできて顔も良くて料理は美味い(・・・)ってどういうこと。

「課長、彼女いなさそうですよね」

 付け入る隙が無さ過ぎる。

「……あ?」

 眉間の皺が増えた。三本になった。地雷でしたか、これ。てっきり気にしていないと思ったのに。それとも、自分で言うのは良いけど他人に指摘されると面白くないヤツか。


 こういう時に逃げるに限る。

 じゃあ私はこれで、とあくまで自然を装って立ち上がる。

「あ!」

 鞄から鍵を取り出す。

「これ、お返しします」

 鬼頭課長は鍵を見つめるだけで、手を伸ばそうとしない。不思議に思いながら、課長、ともう一度呼び掛ける。眉間の皺は三本から、二本に。

 しばらく間を置いてから、鬼頭課長はおもむろに手を伸ばし、しかし鍵を受け取るのではなく、私の手ごと握り締めた。


「……うえ!?」

 何をなさるおつもりか!

 慌てて手を引こうと力を入れるが、ビクともしない。

「ちょ、離し、」

「この鍵、お前持ってろ」

「はいい!?」

 何を仰っておられるのか!

 思わず目を剥き、動きを止めた。その隙を見逃さなかった鬼頭課長は、畳み掛けるように口を開く。

「俺が急用で家に帰れなくなること、お前なら分かるだろ。無理を言っている自覚はあるけどな、こいつがもう少し大きくなるまで、協力してくれ」

 鬼頭課長は、立っていれば私より余程高い。だから威圧感が半端ない。けれど今の彼は座っていて、私は立っていて。

 まるで請い願うように見上げられ、あくまでも真摯な眼差しを向けられれば、──心がもぞもぞする。心臓が煩い。そんな場合でも、そんな場面でもないのに!


(そう! これはチャコのこと、チャコのためだから!)


 何度も何度も言い聞かせる。言い聞かせる度に、妙に浮ついてくる気持ち。うぁ、と変な声が漏れた。顔、赤くなってたらどうしよう。

 いや、ほんとそういう場面ではないんだよ、私! しっかりしろ!


 今こそ、言われたことをハイワカリマシタで承諾する人間から、自分の意見をビシッバシッと言える人間に進化する時!


「か、課長、申し訳ありませんが」

「柚月」

「はい!」


 呼ばれたら返事をしてしまうこの根性、なんとかならないものか。

 言いたいことを遮られ、遠い目をして自分の情けなさを嘆いていると、容赦無い攻撃が私を襲った。


「頼んだぞ」

「はい!……は?」

「よろしくな」

「は……、え?」


 そこで皺をなくして微笑むのは、反則ではないでしょーか。


 思考停止状態が続いている間に、勝手に話がまとまっている。冗談じゃない。ここままじゃまずい。何がまずいって、いろいろ、だ。

 顔からサッと熱が引いていく。傍目から見たら、赤から青に変身したことが分かるだろうか。

 手の中に収まってしまった鍵が、途轍もなく重く感じた。こんなの持っていられない。バレたらどうする。


 突き返そうとした私に勘付いたのか、「もう遅いから、早く帰った方が良い」とまるで善人ぶった口を利いている。いやいやいやいや、そんなに私の帰宅を心配してくれるなら、それよりも先にやることがあると思う(鍵を回収しましょうよ)

 しかし私は、その言葉に音を与えなかった。

 ケースの向こうから、目をうるうるさせているチャコが見えたからだ。


 この無言の訴えに逆らえる者など、果たしているのだろうか。いや、いまい。


 ただ、素直に了解することはどうにも癪で、私はあえて不機嫌そうに「お疲れ様でしたあ!」と声を張ると、チャコに小さく手を振って、鬼頭課長の自宅を後にした。

 マンションを出て、鍵を見下ろす。


 どうしようね、これ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 とはいえ、良識ある大人な鬼頭課長からの“チャコ世話指令”の頻度は、本当に少なかった。非常事態のみ、というのは嘘ではなかった。

 残業のある時でも、会社を抜けることができる状態であれば、一度家に帰って世話を済ませて戻ってくる。それらの融通がどうしても付かない時だけ、お鉢が回ってくるのだ。


 指令は大抵、メールで来る。

 初回は直接呼ばれたのだが、それだとどうにも目立つし、変な噂が立っては嫌なので、頼むからメールにして欲しいとお願いしたのだ。


 チャコは可愛い。彼女に罪は無い。

 ただ、世話を焼いて帰ろうとすると、つぶらな瞳を駆使して引き止めてくる。今のところ、全敗だ。それから、……課長家のご飯はいつも美味である。世話代だそうだ。べ、別にご飯に釣られてなんていませんから!

 なおこの引き止め攻撃は、鬼頭課長相手にも実行されるらしい。心を鬼にして、会社に戻っているのだと聞いた。鬼だけに。流石だ。



 チャコは徐々に成長して、ようやく硬いままのドッグフードを食べられるようになってきた。

 ついこの間、二回目のワクチンも打ってきたのだと、鬼頭課長から聞いた。打たれる時にはきゃんきゃんと悲痛な声を上げていたらしいチャコは、その日の夜にはすっかり元気だったようである。痛かった記憶は抹消されたのか。便利な頭だ。社会人として見習いたい。


「──だから、そろそろ散歩も始めようと思っているんだ」


 チャコお前良い生き方をしているじゃないか、忘れることは大事だよね、と硬い肉球をぐいぐいと押して遊びながら「いーんじゃないですかー?」とテキトーに返事をする。この感触、なかなかクセになるのである。肉球自体の魅力もさることながら、肉球の間に生えている、少し尖った短い毛も、また甘美である。

 猫の肉球とは違った魅力が秘められている犬の肉球に夢中になっていた私は、ソファでゆったり寛いでいた鬼頭課長の放った「お前も来るんだっけ?」という言葉にも、「いーんじゃないですかー?」と返した。

 もみもみもみ、と肉球を揉みながら、あれ、と首を捻った。


「じゃあ明日の十時頃に」

「え、いやあの」

「柚月、前に来たいと言ってただろ」


 確かに言いましたけれども!

 心の準備とか、変装の準備とか、いろいろあるのに。どうして前もって教えてくださらないのか、この御方は。明日って急過ぎる。土曜日じゃないか。休日出勤なんて嫌だ。

 散歩なんて、散歩なんて……行きたいですけど。



 ──かくして、チャコの初お散歩の前日は、あまりにもいつも通りに過ぎ去っていった。




犬の肉球の魅力って半端ないですよね。

割とやわこい猫の肉球も良いですけど、犬の肉球ってやっぱりいいですよね。

あと中型〜大型犬の後ろ足って、クリスマスで食べるチキンに似てますよね。美味しそう。

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