2.鬼頭家に御宅訪問する理由(3)
「まだ子供だからな、ご飯も時間決めてあげてるんだが、明日はどうも間に合いそうもなくて」
「ご友人に頼めばいいじゃないですか。それかペットホテルとか」
何故、私に頼む。
小首を傾げて、んん、と眉を寄せれば、鬼頭課長はむっつりと黙り込んだ。
「……あいつらに頼んでも不安感しか無い上、俺を散々揶揄うに決まってる」
あいつら、というのが誰なのかは知らないが、おそらくは“ご友人”がただろう。
──ドッグフードをふやかす時にぬるま湯じゃなくて熱湯を入れたりとか、構い倒してストレス掛けたりとか……。
続いた言葉に、ウワァ、と身を引く。そんなことを疑われる友人って。
「じゃ、じゃあペットホテル?」
「こいつ、ここから外に出ると暴れ回る」
何故、という言葉を口にする前に、気付く。捨てられた時の記憶が、残っているのか。
私は息を呑んだ。
ちら、とチャコを見る。
もしあの雨の日、先に彼女を見つけたのが自分だったら、果たして私は、彼女を救えただろうか──そんな想いが、頭を掠めた。
拾って帰ることは、……しなかっただろう。その癖、後悔するのだ。きっと、そうだ。
「……分かりました。えっと、餌だけで良いんですよね。散歩は?」
「二ヶ月らしいから、散歩はまだ」
獣医からは、リハビリがてら三ヶ月目から抱っこ状態で外に出てみましょう、と言われているらしい。
抱っこで散歩!
脳裏に情景を浮かべ、いいなあ、と一気に顔を緩ませる。
「……散歩付き合うか?」
「いいんですか!? 行きます!」
遠慮? しません。
だってちまこいわんこと散歩ですよ! なんだかんだいったって、可愛いものは、可愛い。
握り拳を固める。一ヶ月後の楽しみができた。これでもうしばらくは仕事も耐えられるというものだ。
人間、頑張るためには餌が必要である。自分で自分の目の前に人参を吊るすのだ。
(ん、待てよ。散歩って課長もセットなの?)
夢心地の中、はたと気付く。
コースは、この辺り? ここ、割と仕事場に近い。……まあ、生活圏内でない限り、好き好んで会社方面にやってくる物好きはいないだろうけど──なるべく会社の建物なんて目に入れたくない。萎える──。
しかし用心するに越したことはない。
「変装必須かぁ……」
「は?」
「いえ、こちらの話です」
変装ってどうしたらいいんだろう。マスクとサングラスと帽子?
悶々と悩みながら意識をどこかに飛ばし掛けていた私の頭を、鬼頭課長が叩いた。痛い。本人的には軽く叩いたつもりなんだろうけれど。
ぎっと睨む……ことはできなかった。怖いですから。鬼頭課長、鬼ですし。上司ですし。
彼も彼で特に気にすることもなく、チャコをケージに戻している。
いつかセクハラかパワハラで訴えてやる。と考えていたら、鬼頭課長と目が合った。ごめんなさい! 冗談です! もちろん冗談ですとも、ええ!
「説明するぞ、来い」
「へ、へい!」
「……」
なにその返事、って憐れむような目は、やめてもらえませんか?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
生後二ヶ月の仔犬には、仔犬用ドッグフードをふやかしてあげるらしい。ほー。
──ご飯の時間、ドッグフードの場所、与える量に、ぬるま湯の温度。
ぽんぽん与えられる情報を、頭の中に詰め込んでいく。後で整理しよう。
「で、最後に、ほら」
手渡された鍵に、ん? と首を捻る。
「合い鍵」
「はあ。……え!? そ、そんな恐ろしい物を、無造作に!」
恐ろしいとはなんだ、と睨まれる。
いや恐ろしいですよね。いくら観賞用ったって、人気ゼロではないのですよ。私、この歳で死ぬのは嫌です。昼ドラも真っ青な泥沼に嵌るのも嫌です。
「んん。と、とにかくですよ、私が悪用したらどうするんですか!」
「大丈夫だ、お前にそんな度胸は無い。それに渡さなかったらお前どうやってここに入るんだ」
「…………」
確かに、そんな度胸は無いですけど。鍵が無いと入れないですけどー。
面白くない気持ちを前面に押し出し、むす、とする。
「……帰る時に、郵便受けに入れときまーす」
「月曜に手渡しでもいいが」
「死ねと!?」
わざわざ『邪推してください』と言わんばかりの状況を作りたくはない。自殺行為も甚だしい。
郵便受けに入れますね、と強い口調で言い切る。
「あ、もうこんな時間。すみません、電車の時間があるので」
夜が深まるにつれ、電車の本数は減っていく。自然、乗り継ぎも面倒になる。
「家まで送っていく」
「え、や」
反射的に断ろうとしたが、「どの道、駅まで少しあるぞ、ここ」と続いた言葉に、確かに、と納得する。歩きで行くには、少々遠い距離だ。女性が一人で歩くのは、少しばかり怖い。
「……では、お言葉に甘えて」
素直に頼った私に、よろしい、と満足気な鬼頭課長。なんだかなあ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
──次の日。受け取っていた鍵を使ったら、無事に鬼頭課長の家に入ることができた。
当然、なんだけど。
やっぱり少し、不思議。
勝手知ったる、とは程遠いため、手探りで明かりのスイッチを探す。ひとつ見つけると、後は楽だ。
「お邪魔しまぁす」
抜き足差し足忍び足、になってしまうのは、事前に了承を得ているとはいえ、やはり家主がいないからだろう。
リビングの電気をつけると、チャコは既にケージでスタンバイ状態だった。小さな尻尾をブンブン振っている。身体にも当たってるけど、痛くないのだろうか。
「チャコただいまー。課長……えーと、きみの飼い主さんからも話があったと思うけど、今日は私がご飯をあげます! 分かりましたかー?」
挨拶すると、キャンとアンの間のような返事。もしや私が言っていることが分かったのだろうか。やばい、この子天才かもしれない。
盛大に親バカ──いや、“親”どころか“飼い主”でもないけど──を炸裂させたところで、ご飯作りに取り掛かる。
万が一にも間違っては大変なので、鬼頭課長から聞いたことを元に作成したメモを片手に、ひとつひとつ、恐る恐る準備していく。合っているはず。
昨日の鬼頭課長よりも随分と時間を掛けて作ったご飯をチャコのところへ持って行く。
「お待たせー。ご飯だよ!」
ケージに手を入れ持ち上げれば、待ちきれなかったご様子で私の手を前足でぺちぺちと叩いている。
餌を彼女の前に置くと、チャコはすぐさまご飯に顔を突っ込んだ。
おう、いい食いっぷりだ。
「元気に育てよー」
雨に濡れ、寒さに震えていたあの日のチャコが、不意に脳裏に浮かんだ。
「……元気に育てよー」
意味も無く、言葉を繰り返した。
柚月さんは、ひたすらビビる。