2.鬼頭家に御宅訪問する理由(1)
「柚月、飯食い行くぞ」
ホウレンソウのひとつである、報告を(珍しくも)無事に済ませ、さてデスクに帰ろうと踵を返せば、そんな言葉が投げつけられた。
「は……?」
何言ってんのこの人。
というニュアンスを多分に含ませながら振り返ると、それを的確に受信したらしい鬼頭課長の凄んだ顔が飛び込んできた。うげ、皺が三本!
「飯、今日、……行くだろう?」
「いやあ、今日はちょっとその」
「柚月!」
「はい喜んで!」
畜生、我が身に染み付いた社畜根性が憎い。……いや、社畜というか、鬼に対する条件反射、かな。
新人時代なら、「予定がー」とか言わずに先輩に従ったのだろうが、これでも中堅社員。いっちょ断ってやろうじゃないか、と頑張ってみたものの、敢え無く撃沈。
ていうか、これ、パワハラだと思うんですけど、どうでしょう。
一ヶ月ほど前、ちびわんこに向けた優しさは、部下には向かないようである。
(…………)
髪を耳にかけるフリをして、指先で頰に触れる。
うん熱くない。赤くないぞ。
流石に一ヶ月前だし!
わんこ関連で、予期せず見てしまった鬼さんの優しい顔とか照れた顔とか。思い出すと顔が熱くなってしまうのは、何を隠そう“鬼頭課長”という人物が顔面ハイスペックな御方だからである。
そう、鬼という異名を持ち、眉間には常に皺。仕事デキルけどめちゃくちゃ怖い鬼頭課長(出世街道、爆走中! 懐柔できれば、玉の輿!)は、顔も良いのだ。
とはいえ、その恐ろしさが知れ渡る社内においては、『観賞用(というか、観賞に留めないとマジ怖い)』としか見なされていないため、モテモテハーレムにはならない。
天は二物は与えず、とは言うが、嘘だ。少なくとも仕事の才能と、容姿。二つはある。ただ人を寄せつけない眉間の皺が、後者のメリットを台無しにしている気がするけれども。
「なら八時には出れるように」
「はい、分かりましたー」
ん? 定時は六時だって?
ははは、笑わせるでない。『てーじ? 何それ美味しいの?』状態ですよ、はははは。逆にこの時間──時計を見ると、ちょうどおやつの時間を半刻ほど過ぎたところだった──になってから、急に六時に上がれと言われても、無理。私も無理なら、課長も無理。
にしても、なんだろう、突然に。
恐怖の鬼頭課長が女性社員を夕飯に誘うなど前代未聞だ。
……幸か不幸か、向けられるのは羨望でも嫉妬でもなく、憐憫か同情だろう。
(あ、なんだか悲しくなってきた)
何が楽しくて、仕事で疲れた上、鬼頭課長とご飯に行かなくてはいけないのだろうか。
着席した瞬間、正面に座っている雉島さんからの鋭い指摘が飛ぶ。
「柚月、顔死んでるよ」
「ははー、でーすよねー」
そんな気は、してましたとも!
自分の頰を両側から掴んで、ぐに、と伸ばす。いつまでも辛気臭い顔をしているわけにはいかない。周りにも迷惑だ。
雉島さんはそれを見て苦笑する。
「なに? 仕事増えた?」
「そんなとこです」
時計を見る。残り四時間半。プラスアルファの“残業”には、当然残業代は出ない。所謂サービス残業だ。くそう。
──ま、サービス残業なんぞ、昨今そう珍しいものでもあるまい。運が悪かったと諦めよう。
ふはー、と息を吐きながら、椅子に深く凭れかかる。
「いちごミルク買ってこようかなぁ」
「私の分もよろしくー」
先輩は動く気は無いようだ。仕方ないなー、と立ち上がる。いつもお世話になっている礼がてら、行ってこようか。
よいしょ、と重い腰を上げて、私は一階の自販機に向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「お先に失礼しまーす」
うーいお疲れー、とそこらから上がる若干死んだ声に別れを告げ、部屋を出る。多忙極まるのはうちの部署だけではないらしく、他の部屋からも電気が漏れ出ている。
エレベーターに乗り込み、一階ボタンを押下する。
(そういえば、鬼頭課長、まだデスクにいたなー。……忘れたフリして帰ったら怒られる、かなぁ)
やらないけどね、命は惜しいし。
たはー、とため息を吐いたら、扉の方から、ガンッという音が響いた。
ビックリしてそちらを見れば、閉まりかけた扉から、ぬっと手が伸びている。人を検知したエレベーターの扉が、再度開いた。
乗り込んできたのは、皺が二本(=平常運転)の鬼頭課長その人だ。ひぐ、と悲鳴を飲み込んだ私を、誰か褒めて欲しい。
固まる私を余所に、鬼頭課長は、閉じるボタンを押している。エレベーターが降下していく。
ポーンと高い音がして、扉が開く。その間、両者無言だった。
どこに行くのかも知らされないまま。
とうとう、会社を出てしまう。
「えーっと」
「柚月、お前電車組だったよな? 今日は電車か?」
「あ、は、はい。ええ、はい」
「でも車も持ってるよな」
「まあ一応は」
通勤には使わないが、平日に買い出しに行く時には利用しているので、別にペーパーな訳ではない。
しかし何故今そんなことを確認するのか。
訝しむ私を無視して、「車に乗れ」と無言の合図。なんなんだ……。
助手席に乗り込むと、車はすぐに出発した。こちらとしても、“鬼頭課長の”車に乗っている場面は誰かに見られたいものではなかったので、好都合だ。
「それで、どこに行くんですか?」
当然の質問に、しかし鬼頭課長はピクッとこめかみを動かした。怖い! すかさず眉間をチェックする。良かった二本だ。
安堵したら、沸き上がってくるのは怒りだ。私、悪いことしてないのに!
辛抱強く返答を待つと、非常に小さい声で、衝撃的なことを告げられた。
「……俺の家」
「……は?」
真っ白になった頭はそのままに、反射的に車のロックを解除する。
「待て! 変な意味じゃ無い! 俺はお前に手を出す程飢えてない!」
「なっ、なああ!? そ、て、うえ、……課長デリカシー無い! それ私、殴っても許されるレベルだと思うんですけど!」
いや、そういう目的でいられても困るけど。でも。さあ!
その言い方はナイですよね。
キーッ、と怒る私に、流石に自分の発言は問題だったと反省したのか、ボソボソと「……わ、悪い」と聞こえた。声が小さいが、まあいい、許そう。
して、何がどうして、そういう訳に。
じっとりとした視線を向ければ、居心地が悪そうに目を細めた鬼頭課長は、絞り出したような声で告げた。
「諸々の事情を考慮した結果、頼る相手がお前しかいなかった……」
…………はい?
殴っても許されると思います。