4.鬼頭課長との正しい距離(5)
目を見開いて固まる私とは対照的に、予想通りの御方が壁に手を掛け、至っていつも通りのご様子で立っていた。
「あ、……あー、ど、どうも、お邪魔しており、ます?」
「連れ込まれた人間の発言じゃないな。俺が言えた義理じゃないが、もう少し危機感持つべきじゃないか?」
「つ、連れ……!?」
「それから」
足に纏わり付くチャコを抱き上げ、鬼頭課長は興味無さげに続けた。
「それはお前が自分で着替えたから、安心しろ」
それ、が何を指すか分からずに瞬きを数回。着替えた、という言葉に反射的に自分の格好を見下ろす。ぶかぶかなスウェット姿。これはそういう作りなのではなくて、単純にサイズ違いだろう。首元の緩さが気になり、手で布を手繰り寄せる。
「着替えた? わ、私が?」
「そう。そのベッドを占拠して寝るまでは、一応自力で動いてたぞ」
真っ先にチャコに縋り付いていたな、と続いた言葉に、目を白黒させる。聞けば、チャコ相手に謝り倒していたらしい。心当たりは、──まあ、ある。
その後鬼頭課長が私をチャコから引っぺがすと、幽霊のような足取りで洗面台に向かい、勝手に諸々の物を使った挙句──しかも「物の位置がおかしい!」と散々文句を言った上で──、その場で服を脱ぎ始めたのだそうだ。うん、家に着いてからの私の行動と、見事に同じ!
どうやら無意識に、“いつもと同じ”行動を取ったらしい。
頭を抱えた私に、鬼頭課長は「スウェット放り投げたら、それに着替えた」と追い討ちを掛けた。恥ずかしや。でも貰わなかったらタンスに服を探しに行くところだった。危ない。
「ていうか、雉島さんも、酔い潰れたら家に泊めてくれるって言ったのに……!」
唐突に気付く。何故私がここにいるのか、その謎が一向に解明されていない。
「雉島曰く、援護射撃、だそうだが」
「うえええええ」
全然、全く、援護されている気がしない! むしろ私、撃破されそうですけどー!
とにかく、この居た堪れない現状をどうにかせねば。涙目で身体を起こしてベッドから降りようとすれば、長い裾に足を取られ、前につんのめった。
咄嗟に地面に手をつくが、ベッドから半身がずり落ちるという情けないこの体たらく。俯せになりながら、うー、と唸った。
床についた手に力を入れ、ベッドに戻ろうとするが、腕も腕でぶかぶかの服が邪魔をして、上手くいかない。見かねた鬼頭課長が、私の腹に手を回し、ヒョイと身体を持ち上げる。
服に残る洗剤の香りか、それともシャンプーの匂いか。鼻を擽るものに、ドキリとする。距離が近い。吐息が耳を掠めていく。
待て待て、違う違う。これ違うから。チャコにするのと同じだから。深い意味は無いから!
内心で相当狼狽えながら、ひどく小さな声で「アリガトウゴザイマス」と呟く。
「…………」
「あ、あのぅ、退いて頂けませんか」
体温を感じ取れる程の距離感がなかなか変わらないことに、流石に慌てる。このままこうしていたら、動揺を隠し切れなくなるかもしれない。なに、既に隠せていないって? 余計なお世話だ!
脳内一人相撲をしている間に、鬼頭課長の身体が離れていく。そこに安心感を抱くよりも早く、鬼頭課長の動きが止まった。
ん、と首を傾げながらそろそろと顔を上げれば、存外に真剣な眼差しが私を貫いた。
その瞳に、期待を抱く前に。
離れなければ、と思った。
自分の身体を抱き締めるように腕を回し、肩を強張らせると、へらりと笑顔を浮かべた。
「も、もう! 鬼頭課長もですねー、女の子連れ込むなんて、もう少しよく考えるべきだと思いますよー!」
「よく考えた結果なんだけどな」
「は……」
笑顔が固まる。どう受け取れば良いのか。真剣な眼差しは、一向に崩れない。
「誰でも家にあげる訳じゃない」
それは。
「どういう」
私の細い声を遮り、ブー、ブーと携帯のバイブ音が響き渡った。
一拍。
「えっと、出ないんですか?」
無言を貫いた鬼頭課長は、そのままスッと顔を寄せ──
「きゃん! きゃんきゃん!」
電話鳴ってるよ! とチャコが尻尾を振りながら飛び跳ねている。
「分かった。分かったよ」
鬼頭課長がチャコの頭をぽんぽんと撫でると、きゅうーん、と嬉しそうに高く鳴いた。呆然としている私の前で、鬼頭課長は未だにブーブーと震え続けている携帯を掴んだ。ディスプレイを見て眉を寄せると、乱暴に耳に押し付ける。
「もしも──あ? ふざけんな、お前。……あのな、前もそう言って、碌なことしなかっただろうが」
乱雑な言葉に、相手はあの友人さんだろうかと想像する。あの人、今から来るのだろうか。食えないから、少しばかり苦手な人だ。ちら、と鬼頭課長を見る。今ならこっそり帰れるだろうか。お礼はまた改めて、いろいろと、そう、いろいろと、落ち着いてからすればいいことだ。
とりあえず、服だ。服はどこだ。あと鞄。駅に出るなら、この格好では、無理。
両手でズボンを引っ掴み、それでも裾をずりながら、ゆっくりと部屋の扉へと近付く。
「とにかく、来るな。今忙しい」
声は予想外に近くに聞こえた。ひゃ、と悲鳴が溢れる。
『お? 今の声、何ー? あー、分かった。桃ちゃんがいるんだあ』
「煩い」
電話を切り、更には電源まで落とすと、そのままベッドへと放り投げた。
「あの……」
「俺は、誰も彼も簡単に家に上げる訳じゃない」
迷いの混じらない言葉に、止める気が無いのだと悟った。有耶無耶にする気は無いのだと。
「お前だからだよ、柚月」
足から力が抜け、その場にへたりと座る。あまりに驚いて。喜びよりも戸惑いが大きくて。
「……はい!?」
素っ頓狂な大声を至近距離で受け止めた鬼頭課長は、思わぬ攻撃に顔を顰めたが、すぐさま気を取り直したように手を伸ばした。
指先から伝わる熱が、別の想いまで鮮明に伝えてくる。
指を撫で、手の甲まで流れ、はっきりお互いの体温を確認してから、手を握る。広がる熱に、堪らず顔を伏せた。
どくどくと鳴り響く心臓の音が、私を支配しているような錯覚。
「さて」
どことなく甘さを含ませた声に、肩を震わせる。どこまで見透されているのか。私まだ、なんにも口にしていないんですけど。
(あ、でも雉島さんには完全バレてたな)
そちらもそちらで、とんだ一人相撲を展開していたのだった。恥ずかし過ぎる事実に、その辺りの壁に頭突きをかましたくなる。奇声さえ上げようとした直前で、「どうされたい」とこの場には不釣り合いに近い言葉が投げ掛けられる。
「お前、このまま俺が押せば流せそうだけど、それでいいか?」
「い、いいか、と、言われ、ましても」
確かになんか流されそうだなー、とは自分でも感じておりましたよ。この空気に完全に呑まれておりますよ。昨日は酒にもしっかり呑まれましたからね!
ぐるぐるした頭が、でもその方が楽なんじゃないの、と誘惑する。そうしたら、きっと、言い訳ができる。
でもそれは──
くう、と声がした。
〜オマケ〜
「っていうか! 化粧! 化粧落ちてる! なんで!? クレンジングは!?」
「それも含め、お前人の家のモン勝手に使ってたぞ」
「え!?」
→ちょっとだけ続く




