4.鬼頭課長との正しい距離(3)
マンションを出て、自分の車に手をつく。
後ろから、自分よりも重い足音が響いた。鬼頭課長のものとは違う。そんなことが分かる程度には一緒にいた。──いや違うよ? プライベートで、じゃなくて、仕事で! あくまで仕事で!
自分の心にぽんと生まれたものを慌てて掻き消す。
「意外と足速いんだねー」
一見すると悪意があることはちっとも分からない調子の声に、笑顔。しかし内面はそれに見合わない。
無視するに限る。鬼頭課長を無視して来たんだから、もう怖いものなんてない。
(……次に会った時、皺が三本になってたらどうしよう)
やめよう。想像すると怖すぎる。
それにしても、何のために追い掛けて来たのだろう。ちらりと視線を向けると、「伝えたいことがあって」と返ってきた。
「今日は本当、会えて良かった」
この人、誰にでもこんなこと言っているのだろうか。ナンパ野郎か。しかし、向けてくる笑顔があまりにも透き通っていて、調子が狂う。
おそらく盛大に引き攣った顔をしている私を華麗にスルーして、ご友人は頭の後ろで手を組み、口を尖らせる。
「今日だって桃ちゃんと会えなかったら、追い返されてハイサヨナラだよ。家の中にも入れてもらえないし。信ちゃん、ぜーんぜん見せてくれないんだぜー。宝物みたいにしまってんの。だから今日ようやく、だよ」
そりゃあ貴方にまだ幼いチャコを見せるのは不安があるだろう。せめてもう少し大きくなってから、だ。鬼頭課長の判断に、心の中で激しく同意する。
しかし何故それを私に言うのか。わざわざ追い掛けて来てまで言うことか? 違くない? 違うよね。いったいなんなんだー!
「──ま、でも、確かに危なっかしいし、そうしたくなる気持ちも分かる、かな?」
頭を捻らせている間に、私はまたも鬼頭課長のご友人の接近を許してしまったらしい。自分の顔に差した影に、目を見開く。
この人ほんとパーソナルスペース分かってない!
「ちょ、近いです、不快です。離れてください!」
ハッキリきっぱり言い切ると、ご友人は嬉しそうに笑んだ。
「信ちゃんにわんちゃん渡す時は、このくらい近くなかった? 信ちゃんが良くて、俺が駄目な理由を、桃ちゃんは自覚してる?」
「な……」
それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
何を答えようとしているのか、何を答えるべきなのか。ちっとも分からない。
──自覚なんて、していない。
唇を噛み締める。この程度の押し問答、散々自分でもやっている。今更この人に、言われるまでもない。
それでも蓋をして、扉に鍵をかけたのは。
少なくとも、この人の前でそれを開けるためではない。
揺れる視線を、一点に集中させる。
「犬を放り投げて渡すような人はいません! 鬼頭課長相手だって、さっきの距離は嫌ですよ! 断固拒否、です! それよりいい加減離れないと鞄を顔にぶち当てますよ」
見事に据わった目で鞄を掲げれば、おー怖い、と笑いながらご友人は私から離れた。パーソナルスペースの、ギリギリ外。……実はさっきまでの距離感、全部ワザトだとか言いませんよね?
疑惑が浮上したその御人は、しかし未だに涼しげな顔で笑っている。この人、苦手かもしれない。食えない!
私は最後にじろりと彼を睨むと、車に乗り込んで、早々に鍵をかける。乗ってこられたら、引き摺り下ろすのは非常に困難だ。
車の前に躍り出てまで邪魔する気は無いらしい。安堵しながら車を発進させる。
「ほんと、なんなんだ……」
車内のBGMに、私の声が溶けた。
「…………」
久々に一緒に過ごせて嬉しいだなんて、そんなこと、決して思ってはいない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
逃げるようにマンションを出たことで責められるかとも思ったが、結論から言えば、まったくの杞憂だった。むしろ昨日食事を共にしたことにすら一切触れない。
ありがたいはずなのに、モヤモヤする。
パソコンの画面を睨み付け、私は短く息を吐く。駄目だ、集中できていない。
手を止め、椅子の背もたれに深く沈む。
「今日も浮かない顔だね」
「雉島さーん、私はもう駄目でーす」
冗談混じりに泣き付いてみる。にこ、と笑った我が尊敬する先輩は、細い手を私に差し出した。
「いちごミルクをご所望でございますか?」
「違います。“姫、御手を”という意味です」
急に敬語になった雉島さんは、もしかするといつの間にか騎士役に就任しているのかもしれない。なんだこの劇。乗るけどさ。
少しばかり照れながら、手を重ねてみる。「おお、いい演技力だね」褒められたけれど、違います。素です。素で照れているんです。
「姫、本日の業務後は空いておりますか?」
「空いて、」
ちら、と机の上に置いてある仕事リストをチェック。脳内にしまってある、やることリストも引っ張り出し、即座に整理する。
「……ます」
「じゃあ飲みに行こう!」
急に口調を崩した雉島さんは、私の背中を勢い良く叩いた。景気付けか。でも痛い。こちらの気持ちを察して、底抜けに明るく振る舞ってくれる雉島さんには、救われているけれど。
首の後ろに手を当てながら、私はなんとも表現し難い心持ちで顔を歪め、こてりと首を傾げた。
二人きりの女子会は、静かにスタートした。
場所は前々から雉島さんが「行きたい!」と騒いでいたお洒落な食事処。アルコールは、カクテル系が美味しいらしい。
直前での予約だったにも関わらず、個室をゲットできたのは、奇跡的な幸運だろう。あるいは、と雉島さんを見る。……実は事前に予約取っていた、とか。まさかね? 計画的犯行?
金曜だから飲むぞー! と片手を天に突き出した雉島さんに、「私は電車降りてから少し歩かなくてはいけないので」と断ろうとしたが、「イザとなれば私の家に泊まればいいのだ」と既に酔っ払ったようなテンションで肩を組まれる。退路を断たれた……!
「今週も乗り切ったぞー、カンパーイ!」
「かんぱーい」
そんなわけで、今私が掲げているのは、紛れもなくアルコールである。何故こうなった。
(まあ別にいいですけどー)
甘い味のする酒を喉に流し込む。意外と度数が高かったのか、喉がガッと熱くなる。
「で、何があったのよ。鬼頭課長絡みよね?」
舌を出し、うー、と眉尻を下げていたら、ど直球が私に向かって飛んできた。ピキンと固まる。
「え、や……」
「全部吐いちゃいなさいよ。酒だけに」
「いやいやいやいや、お酒には飲まれたくないですよ!」
「私には相談できぬと申すか」
雉島さんの目が据わっている。早々に酔ってないか、これ! 完全に絡み酒!
ハッとして自分の手元に目をやる。見た目以上にアルコール強いのではなかろうか、ここのお酒。心無し、自分の頭もぼんやりするような。
ぐるぐるしているのは、考え事の所為か、動揺の所為か。それとも酒の効果なのか。
言葉を失う私の代わりに、雉島さんが口を開く。
「ぶっちゃけどうなの? 付き合ってるの?」
なんの躊躇いもなく、爆弾投下。
容赦ない雉島さん。
翻弄される柚月さん。




