4.鬼頭課長との正しい距離(2)
しばらくすると、台所から良い香りが漂ってきた。……うん!?
まずい予感がする。
「わ、私はそろそろ! お暇致します!」
ここで流されたら、その後もズルズルと居座ることになりそうな予感がした。おそらく一度そうしてしまえば、ぎこちなさはなくなり、“元の関係”に戻るのだろう。私は、──それは、嫌だ。
慌てて鞄を引っ掴もうとして、ご友人の妨害を受ける。彼はにこにこ笑いながら、人の鞄をギリギリ私の手が届かない場所へズラした。
「………………」
イラッとしながらも言い返さず、身を乗り出し、再度手を伸ばす。また鞄が奥にいく。
「………………」
仕方なく、膝立ちの体勢で、一歩分だけ前方に進む。またも鞄が……。
「なんなんですか! もう!」
「えー、だって俺、桃ちゃんともう少しお喋りしたいしー?」
こっちは“お喋り”なんぞする気分じゃないわ! 大体、鞄を物質に取るような輩と、楽しく話ができるか!
じっとりとした視線を向けるが、大して気にした様子は無い。こやつ、なかなかに図太い。
次は逃さないぞ、と狙いを定め、両手で飛び掛かる。鞄を引かれる前に、床に押さえ付けることに成功した。どうだ、やればできるんだから。
ふふーんと胸を張っていると、背後から、ぶはっ、と息を盛大に吐き出した音がした。
「柚月お前、戯れついてる犬か猫か」
「はっ!? ち、違いますよ!」
「人の動きじゃなかった」
「どういう意味ですか! 失礼な!」
む、と眉を寄せると、捕まえた鞄を手繰り寄せ、立ち上がる。
「とにかく私は帰ります」
ツンと顔を背けながら言い放てば、「飯は食っていかないのか?」と呼び止められる。お綺麗な顔が、私の表情を読むためなのか、近付く。ご友人のような恐ろしい近さではないにせよ、……視線が絡まると、どうにも恥ずかしい。頬はきっと赤くなっていない、はず。
途端に旗色がよろしくなくなったような気がした。
「わ、悪いですから」
「作っちまった訳だから、食べてくれた方が助かる」
「お……お腹空いてませんから!」
ぐー、と腹の音が鳴った。
先程とは違う意味で、顔が真っ赤になる。鬼頭課長は、うははは、と笑い始めたご友人をじろりと睨んでから、「俺が困るから食ってけ」と、お腹を押さえる私に笑い掛けた。
「…………ありがたく、頂きます」
何故、今この時に余計な自己主張をしたんだ、私の腹め。ふわりと漂う香りに、あーでもこの匂いを嗅いだら致し方無いかもしれない、と自分を自分で慰めた。
ケージから出たチャコがてたてたと、まだ周囲の不安感を大いに煽る足取りで、食卓の下を探索している。気分は偉大なる冒険家であるのか、心なしか澄ました顔をしている。その顔に反して、素直な尻尾がぶんぶん振り切れているが。
憂鬱な心が、ふわりと浮き上がるのを自覚した。
やがて食卓に運ばれてきた食事は、記憶の通り、とても美味しそうだった。
私以上に目を輝かせたご友人は、「食べていい?」と訊ね、しかし返事を待たずに食べ始めた。なんて自由な人だろうか。
そんな彼を横目に見つつ、手を合わせ、静かに「いただきます」と言う。
目の前には炒飯とたまごスープ。それから中央に鎮座するサラダ。美味しそうだ。でもこれってたまご何個分だろうとか、不要なツッコミを封じ込めつつ、頬張る。……くそう、美味しいよう。
じたばた身悶えていると、「聞いてた通りだなー」と斜め前方から声が聞こえた。
「な、なんですか」
見つめられると居心地が悪い。このご友人は、距離感といい質問内容といい、何かと無遠慮だ。今度は何をするつもりか。警戒心を前面に押し出して対応する。
しかし予想に反し、「別にー?」とにこにこ──この発言と状況下で、これが、にまにま、にやにや、にならないのは、ずるいと思う──笑っている。
それにしたって。
……不思議な空間だ。
ごちそうさまでした、と手を合わせてレンゲを置くと、前方に座る二人を盗み見た。
上司。上司の友人。部下、つまり私。
なんでそんな三人が顔をつきあわせて夕飯をとっているのだろうか。謎すぎる。
キャン、と足元で声が聞こえた。忘れないでよ、と言わんばかりのタイミング。本当にそんな意図があるのかもしれない。くす、と笑みを溢す。
構って欲しいのか、足先をかりかりと引っ掻き始めたチャコを抱っこする。
最近は鬼頭課長と鉢合わせしたくなくて、ここに来てもずっと気を張っていたから、何故だか久し振りな気がする。不思議なことに、会いたくなかったはずの本人がいる今の方が、余程リラックスしていた。
もふもふに顔を突っ込み、その柔らかさと温かさを堪能する。チャコは自分勝手な私にも寛容で、腕をぺろぺろと舐めている。あまりに丹念にそうしているので、「私は食べ物ではないよ」と声を掛けたくなる程だ。
「俺も犬と戯れたいなー」
いいなー、と頬杖をついているご友人は、チャコを任せるにはいささか信用に欠ける。逆さ吊りとか、足を引っ張るとか、しそう。──なるほど、いつぞや鬼頭課長が言っていた『あいつらには任せられない』発言は、つまりこういうことか。
……つまり鬼頭課長の友人は総じてこういう輩だということか? あ、あり得ない!
可能な限り距離を開けるべく、椅子を端に寄せる。ご友人はより一層可笑しそうに顔を歪める。歪んでいるのに爽やかに見えるなんて、ほんと不公平だ。ついころっと騙される女の人とか、いそう。私は騙されないけどね。
いくら友人の部下を見つけたからって、夜に平気で腕を掴んで相手を怯えさせる人なんて、碌なもんじゃないに決まっている。
そういえば、鬼頭課長も私の足に無造作に触ったな、と思い出す。
本当に同類じゃないか、この二人。
視線を動かし、鬼頭課長をジト目で見やる。当の本人は面食らった様子で「なんだ」と返してきた。
「特に意味はないですけど」
言いながら、仲違い中であったことを思い出す。
「長居をしても迷惑でしょうから、私はこれで!」
チャコを鬼頭課長に手渡しして、部屋から飛び出した。おい、と呼び止める声が聞こえた気がしたけど、無視だ、無視!
犬猿の仲──ではない。




