4.鬼頭課長との正しい距離(1)
「柚月」
「は──はい、なんでしょうか」
飛び跳ねる心臓を押し隠して、仕事の仮面を貼り付ける。
平常運転の皺二本を一瞥し、手に持ったペンとノートに視線を落とした。さっさと話をしてくれ、と暗に訴える。
それを受け取った鬼頭課長は、手短に用件を済ませる。
あくまで義務的なやり取り。
「……最近、いつにも増してぎこちないねぇ」
雉島さんの心配そうな顔に、「えー、そうですか?」と誤魔化し笑いを返す。ぎこちないことは、自覚している。それが自分が引き起こしたものであることも分かっている。
鬼頭課長は何も変わっていない。
変わったのは私だ。
胸に手を当てる。
この痛みが少なくなれば、正常に近い状態へ戻れる気がする。
だけど、今はまだ──。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そうして、今日も今日とてチャコに謝って、家を出──たところで、知らない男性に腕を掴まれた。
「な、なんっ、なんですかっ? 誰ですか貴方!」
男は人好きのする笑みを浮かべている。こんな風にされていなければ、害の無さそうな好青年と見ただろう。ふわふわでにこにこな顏をした大型犬を彷彿させる。どこかの誰かさんとは大違い。
だからこそ、やっていることとのギャップが大きくて、恐怖を生む。
腕を引こうとするが、びくともしない。
(こ……、こういう時はどうすればいいんだっけ……!?)
泣きたい気分になりながら、辺りに視線を走らせる。しっかり暗くなった夜道には、誰もいない。鬼頭課長の住んでいるマンションは、住宅街の一角にあり、大通りから一本、二本、中に入った場所にある。夜ともなると人通りはほとんど無くなる。
とはいえ、電灯はきちんとあるし、真っ暗というわけではないので、安心しきっていた。まさかマンションを出てすぐに不審者に遭遇するなんて思いもしなかった。
マンションに逃げ込めばいい。
軽い気持ちでそう考えていた。腕を振り払う隙くらいはあるだろう、と。
しかし現実に遭遇してみると、それらはどうも希望的観測であったと言わざるを得なかった。
鬼頭課長はまだ帰ってくる時間ではないだろう。どうしよう。しかし思い通りになってやる義理は無い。日和りかけた自分を叱咤し、敵方を睨めつける。
「離して!」
「わー、噂どおり元気な女の子だなあ」
「はいっ?」
男は、私を掴んでいる手をそのままに、空いた手で自分の顔を指差す。
「ご安心くださーい。俺、不審者っぽく見えるけど、断じて違うんで! ハジメマシテ、俺は猿舘っていいまーす。ねえ、俺のこと信ちゃんから聞いたことない?」
十分不審者に見えますが。
心の中で反論しながら、「信ちゃん?」と首を捻る。誰だそれ。やっぱり人違いなんじゃないか。あるいはただの方便か。あと十秒で腕を離さなかったら、全力で蹴って暴れて逃げ出してやる。
男はしきりに目を瞬かせている。通じていないことが、不思議で仕方ないらしい。なんで分からないのだろう、とでも言いたげだ。
十、九、八……
声には出さず、カウントダウンを開始する。
残り五秒となったところで、「本当に知らない?」と更に言い募ってきた。残りの秒数など気にせずに蹴ってしまおうか。
「鬼頭信志。きみの上司でしょ? ね、柚月桃香サン?」
零。
カウントダウンは終了したのに、私は動けなかった。男の口から、鬼頭課長の名前と──そういえば、下の名前ってそんなのだったっけ、忘れてたよ。呼ばないし──、それから自分のフルネームが飛び出したことに目を見開く。
彼が本当に鬼頭課長の知り合いなのか、それとも重篤なストーカーなのかは判断できないが、コレが無差別に声を掛けた訳ではなく、“私”という人間を認識した上での行動なのだということはハッキリした。
思い掛けない発言にしばし言葉を失ったが、「あれ? 合ってるよね?」と顔を覗き込まれて我に返る。近い! 距離が近い! 顔が近いよ!
逃れるように上半身を後ろに反りながら、「いえ、それは、そうですけど……」ともごもご返事をする。
「ほー。へー。きみがねー。なるほどー?」
じろじろと人の顔を見ながら、離れた距離をちゃっかり詰めてくる男を、『面倒なストーカー』枠に放り込んだ。たとえ鬼頭課長と本当に知り合いだとしても、この距離はナイ。
的を確認。足を軽く上げ、
「──おい、何してる」
それを発射する一瞬前に、太い腕が間に割り込み、私の腕を解放した。
「き、鬼頭課長?」
鬼頭課長は、私を背に庇うようにして立っている。肩は、浅く上下していた。息も乱れている。まるで急いで帰ってきたと言わんばかりのご様子。
「や、信ちゃん。早かったねー」
「お前が言うか」
「だってどんなもんかなって思ってさあ?」
「……いっぺん沈められたいらしいな」
目の前では、物騒ではあるが、仲が良さそうな空気も醸し出す会話が繰り広げられている。
その横を、私たちをチラ見したマンションの住民が通っていった。
「ここで話すのもなんだ。うち上がれ」
視線に気付いた鬼頭課長が提案する。彼は、固まる私の方を振り返り、「お前も来い」と告げた。……え? 私、関係なくない?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
お邪魔します、と消え入りそうな声で挨拶して、部屋に上がる。チャコはご主人を見て尻尾を振り、それから私を見て「あれー?」という顔をした。
その彼女に背を向ける形で、リビングのテーブルを囲み、クッションの上に正座する。
「何か飲むか?」
「いえ、お構いなく」
「俺は珈琲がいいなー」
お前はもう少し遠慮しろ、と文句を言いながらキッチンに消える背中を見送る。
「なんだかんだ作ってくれんの」
悪戯を成功させた子供のような顔で、鬼頭課長のご友人は、私に顔を寄せる。この人、とりあえずいろいろ近い。半歩引きながら、「そうですか」と返す。それ以外に何を言えと。
「ねー、桃ちゃんと信ちゃんは、どーいうご関係なの?」
会って数分で、許可もしていないのに名前で呼ぶ馴れ馴れしさに顔を顰めながら「どうもこうも、ただの上司と部下です」と毅然として答える。
「でも普通の上司部下は、家に上がるなんてそう無いでしょ?」
「そうですね。止むを得ない理由があるため、そうなっているだけです。……あの、なんなんですか?」
何が言いたいのか。何が訊きたいのか。
あまりにも含みを持たせた発言に、鬼頭課長ばりに眉間に皺が寄る。ハッキリ言ってしまえば、鬱陶しい。
「いやー、てっきりさ、イイ仲なのかなーって思ってさあ?」
…………はああ!?
数秒のフリーズ。後のパニック。
「あ、あ、あり、あり得ません!」
「あれそうなの? 満更でもなさそうなのに」
「どこをどう見たらそう見えるんですか! 貴方の目は節穴ですか!?」
やけに飄々とした鬼頭課長の友人は「わー、初対面なのにこわーい」とへらへらしている。苛立ちによって、口元がヒクついた。鬼頭課長、よくもまあこんな人の友人なんか務めているな。いや逆も然り、か。鬼頭課長の友人ってすごいよ、常にあの眉間と戦っているのだから。
要するに、類は友を呼ぶということだ。
一人納得し、距離を取る。
こういう人には近付かないに限る。
不用意に近付いたら──ちらり、と鬼頭課長を盗み見る──碌なことにならないのは、十分過ぎる程に実感している。




