1.鬼頭課長の眉間の皺を消す方法(1)
──道路脇にその人を見つけたのは、偶然以外のなにものでもなかった。
ザァザァと地面を打つ雨の音に、掻き消されそうな音量で聞こえてくる甘い言葉。
くぅん、と弱々しく鳴く茶色い生き物に傾けられた傘は、本来の持ち主をちっとも隠していなくて、服の色は変わってしまっている。
「お前、一人なのか? うち来るか? 良い生活はさせてやれんが、飯くらい出してやる」
随分前から降っている雨に晒されていたらしい仔犬は、既にずぶ濡れだった。その子を守るように腕に抱え、自分の服で身体を拭う。
「だから安心しろ、な?」
「ふぁ、あ〜……」
黒い傘が角を曲がって見えなくなってから、ようやく息ができた。
知らず知らずの内に、呼吸を止めていたようだ。
普段、鬼かと見紛う程に眉間に刻まれた皺。それが無いと、人間の印象って、まったく! 全然! 変わるんですね!
(あれは詐欺の域だ……)
最後に浮かんだ、優しい横顔を思い浮かべ──沈黙。
何故だか火照っている顔をパタパタと扇ぎながら、私は未だに雨粒をぶつけてくる空を睨んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
──憂鬱な月曜日。
月曜日が待ち遠しいと感じる人は、きっと人生を楽しんでいるのだろう。あるいは、物事の切り替えが上手な人だ。
私は正直、月曜日なんて来なければ良いのに、と思う。でも終わっていない仕事を残したまま過ごす休日ってあんまり楽しくない。だから多少憂鬱でも、月曜日は来るべきなのだ。嫌だけど。
「柚月、先週伝えた製品の提案書、どうなってる?」
「あ、はい。午後一には一度お見せします」
商品販促課は、割と慌ただしい毎日を送っている。今日も今日とて、てんやわんやしている。
先週金曜に依頼された直販課向けの提案書は、既にほぼ完成していたが、まだ流れが悪い。単体で読んでも理解でき、更に営業マンがこれを使って説明もできるもの……というのは、なかなか作成が難しいのだ。
今でもまだボロクソに扱き下ろされる時があるが、それでも入社当時よりかはだいぶ成長した。
当時は、本気で死ぬかと思った。
資料の作り直しによって労働時間が伸びるという物理的な攻撃もあったが、それ以上に、“鬼”の静かながらも鋭利な言葉による説教が精神的に辛かった。
辞めたいと思ったことは数知れず。この人は自分になんの恨みがあるのか、いっそ言い返したいと思ったことも、数知れず……。
鬼──鬼頭課長。
眉間に寄った皺がトレードマークな、将来有望、優秀な男性だ。
顔立ちは非常に端正。
私はそれよりも皺に目がいってしまうのだけれど。あれが二本から三本になった時が、一番話し掛けてはいけない瞬間、もしくは今から自分がボロクソに言われる前段階なのだ。
若かりし頃の鬼頭課長は、そりゃあもう凄かったそうな。玉の輿を狙った女性も多かった、らしい。これは先輩談だ。
入社したての頃は、玉の輿云々とは関係なく、まだ恋だなんだと騒ぐ余力のある同輩からのアプローチ。
頭角を現し始めると、先輩からのソレも加わり、後輩も仕事ができる先輩に想いを馳せた。
……が。
愛の鞭というにはあまりにもキツイ物言いに、離脱者が続出。
アプローチすればする程、皺が寄っていく彼に、「触らぬイケメンに祟りなし」という言葉まで出回る始末。
今でも新入社員の中には犠牲者、もとい夢見た乙女が無謀なアタックをすることもあるが、例外無くその無謀さを自覚して散っている。
「観賞用には良いけど、アレと家庭を築くとか無理だわー」
とは、私が尊敬して止まない雉島さんのお言葉である。
確かに。私は全力で同意したい。鬼頭課長を恋愛対象に見るなんて、無理。ぜーったい、無理。
今では、感謝している点があるとはいえ、それでもあの指導は受けたいものではない。
──と、思っていたのだが。
「ぅぐ……」
日曜日にたまたま見掛けてしまった、破壊力抜群な鬼さんの姿を思い出し、机に突っ伏す。
せめてあれが土曜日だったら、一日おいて、心を鎮めてから出社ができたのに。いつもとは違う意味で憂鬱な月曜日だ。ハッキリ言おう。まだ動揺している。
(……ハッ、いかん、こんなことをしている場合ではない)
時計を見て、パソコンを睨む。約束の時刻までに資料ができなかった場合の末路など、嫌という程わかっていた。
──少なくとも、今は、恋だの愛だの、言っている場合ではないのだ。いやマジで。
数時間後。
案の定というべきか、この内容では何が特徴なのかが分からないやら、ここの情報が足りないやら、数々の駄目出しを頂戴することとなった。
正論だ。とっても正論。ありがたーい正論! しかし憎らしくもある。
最初に提示された期限は、今日の定時までだ。あともう一度、目標三時、遅くとも四時には第二版を持っていって、細かい手直しの時間を確保──と頭で予定を確認する。
再度時計を見て、休憩に入ることにした。根を詰めるのは良いが、詰め過ぎてもいいアイデアは浮かばない。こういう時は、一度離れてリラックス。離れてみると、意外とアイデアが落ちてくるものである。……来ない時もあるけど(来なかったら地獄だ)。
(あー。甘い物、飲みたい)
伸びをしながら、考える。ほんのり甘いやつじゃなくて、めちゃくちゃ甘いのがいい。いちごミルクみたいな。
脳内を検索して、それに該当するものが一階の自販機にあったなあ、と席を立った。
「お、柚月、休憩?」
「あい。戦死したんで、アイテム補給してきます」
「ははー、今日も立派な敗戦だったね」
「一戦目は負け戦前提。これ鉄則です」
胸の前で手を組んで、天井を仰ぐ。最近LEDに替えた電球が丁度良い感じに目に優しかった。
向かい側の席にいる雉島さんの、にこーっというイイ笑顔。ちょいちょい、と手招きに従い寄っていくと、一番おっきな硬貨を一枚、手渡された。
「私も回復薬欲しいの」
雉島さんの回復薬といえば、いちごミルク。
「わあ、私もそれ買おうと思ってたんですー。おそろですねっ!」
あくまで明るく声を出したつもりだったのに、今日は一段と疲れてるね、と労りの手を差し伸べられた。何故。
へにゃっと恋愛物語、すたーとです。