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こはく  作者: 黒猫屋
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2


晴れ渡る空と、それを埋め尽くそうとするかのように高くなる真っ白な雲。


そんな夏色の背景を背に、私の心は複雑なもやに包まれたままだった。


私は気だるく視線を床へ落とすと、またも目の前を通りすぎるワンピースの少女を追った。


……。


私の叔母は目が合えば小言を言ってくる人だった。


当時は叱られるがまま、ただただ泣いていただけだった。

しかし、私が成長し、ある程度の世間を見渡せる様になった今になっても、あの頃と同じ様な扱いを受けていた。


小言や叱責の後の決まり文句「あなたは母親がいないのだから」は私の心に屈強な扉を作らせた。


だけれど一つだけ、絡まる思いをさらに複雑にさせることがあった。


私が叔母に責め立てられるときに決まって湧き出す感情。


悔しさ、悲しみ、そして……喜び。


知らず知らずのうちに私は叔母に、見たこともない母親を重ねていたのかもしれない。


叱られる喜び? 嘘みたいなそんな感情は、私の中で処理しきれない複雑なものとして、その都度棚上げされていた。





縁側の突き当たりにある二階へ上がるための急な階段をチラリと見た。


はだか電球が一つぶら下がるだけの薄暗い二階へ、談笑から逃れるように私は上がっていった。



祖母一人では掃除をしきれなくなったのか、二階の部屋は湿気が酷かった。


足の裏はきっと真っ黒だろう。なんだか砂の上を歩いているような、少し不快な感覚。


一旦、換気をしようと窓を開けようと、ネジ式の古い鍵を外す。


木でできた窓枠は、建て付けが悪くなったのかキィと金属が擦れる不快な音を出しながらゆっくりと開いた。


同時にひぐらしの鳴き声が耳に入ってきた。もうそんな時間かと外を見渡したとき、夏らしくない突風が吹いた。


薄い窓ガラスが風に煽られガタガタと音をたてる。

私を突き抜けるように部屋に入ってきた風は、髪を大きく乱す。


堪らず目を閉じた私の耳に入ってきた鈴の音。


私はその音のした方へ、まるで何かに導かれるように首を回した。





風がおさまり、静けさを取り戻した空間。遅れてひぐらしの鳴き声が耳へと戻ってくる。


私の視線の先には、廊下と部屋を隔てる襖があった。


黄色のくすんだ色をした襖の上を見ると、私を振り向かせた小さな鈴がぶら下がっていた。


無意識のうちに、襖の引き手に手をかけていた。


……。


ひんやりとした空気、少しのカビ臭さ。


無数の段ボールが畳の上に綺麗に積まれている。


奥の壁際には古くさい机があり、机の上にはその時代の最先端であったであろうデザインの、緑色の電気スタンドが埃をかぶって立っていた。


その脇にある、私の背の高さ程の本棚に目をやったとき、この部屋の主人が誰であったかがわかった。



建築学入門、日本近代建築、建物デザインetc……。


時の流れの止まったその部屋は、父が使っていたものだった。


ふと視線を回し、入り口に目をやると舞い上がる埃に反射した西陽が、光のスロープを作り出しどことなく寂しげに輝いていた。


部屋の空気が入れ替わったと同時に、私は興味本意で探索し始めた。


父の過去を探れば、心の奥に閉じ込めた一人の女性のなにかが分かる気がしたから。





段ボールの中には綺麗に畳まれたシャツや、ズボンなどの衣類が詰まっていた。


几帳面な父の性格がこんなところからも見てとれる。


押し入れには古い本がこれでもかと積まれていた。大学入試の参考書やら随分使い込まれた辞書だ。


そんな中で、私の頭に疑問符を浮かばせる一冊があった。


黒い背表紙に、金色の英字の刻印の入った分厚い本。何かの辞典のようだった。


埃を払ってから、その分厚い本を机に移した。


厚い表紙を捲ると、バリバリと音を立てるその本は、今にもバラバラに崩れてしまいそうだ。


所々剥げ、虫食いの痕が見られるその古めかしい本は鉱石の辞典のようだった。英語とは違う文体で綴られた文字は何処のものだろう。


私は全体の雰囲気からフランス語?と一方的に決めつけた。


数ページめくったところで、栞の存在に気がついく。栞を頼りにそのページまで一気にめくると、丸く細長い艶やかに描かれた石の挿絵があった。


石の中には気泡の様なものが描かれている。


「Ambre? アンブル? アンバー? アメーバ……」


声に出して呟いていた。何故だかは自分でもわからなかった。


「あれ?父さんて、こんなものに興味持ってたっけ」


新たに飛び出した疑問符は、薄暗くなってきた部屋に響いた後、溶けて消えていった。





そっと本を閉じると、もとあった押し入れに戻そうと本を持ち上げた時、スッと足元に紙切れが落ちた。


本を抱えながら見下ろしたその紙切れは、数行の文字が書かれていたが、重い本を抱えたままの私には屈んで拾うことは無理だった。


押し入れに本を戻すと、すぐさま紙切れを拾い上げる。


『19××.11.7 Paris Masayuki Chiho』


「あ、パリって書いてある……」


掠れた細い文字は、英語の教科書に出てくるような綺麗な筆記体で書かれていた。


紙切れを裏返した時、私は知らない世界の扉を開いたような、新鮮で爽やかな風を体中に浴びた。


ボロボロの紙切れだと思っていたものは、色褪せた写真だった。


背景には巨大な鉄塔。あの有名なエッフェル塔だろうか。そして、橋の上でにこやかに微笑む一組のカップル。


若き日の父と……。


胸に綺麗なブローチを着けた女性は……母だろう……。


私に似てる。少し癖っ毛な髪も、切れ長な目も。


私はトクンと大きく脈打つ、自身の鼓動を繊細に感じ取った。


手には自然と力が入り、足は小さく震えているのがわかった。


顔はどうなっているのだろうか。そこかしこに力が入り、処理しきれない溢れ出す感情のままになっている事だろう。


言葉に置き換えることの出来ない、大きくうねる渦のような感情は、私の体を自然と居間へ走らせた。





「父さん! 父さんはっ!?」


私は居間に着くなり大きな声を出していた。


居間で話し込んでいた祖母や叔母が驚きながら振り向き、私を変なものでも見るかのような目で凝視した。


その場に父さんの姿が無いのを確認すると、私は咄嗟に叔母に写真を突きつけた。


叔母ならば何かしら母の事を知っているのではないか、些細な情報でも何でもよかった。


今の今まで隠していた、いや、閉じ込めていた欲求が私をそう突き動かし、行動させた。


「叔母さん! この人私のお母さんでしょ? 叔母さんなら何か知ってるよね?ねぇ叔母さん!」


叔母はお茶の入った湯呑みをゆっくりと机に置くと、今まで見たこともない優しい表情で私に語りかけてきた。


「千夏。座りなさい。あぁ、あんなに畳の上を汚しちゃって。それから、久しぶりに会ったんだからまずは挨拶が先じゃない?」


振り返って見ると、私の足跡が畳を黒く汚していた。


私の感情剥き出しの行動と勢いは、叔母のたった一言でいとも簡単にいなされてしまった。


「ご、ごめんなさい」


私はうつむきながら謝ると、叔母から少し離れ、座布団から外れた場所へ正座した。


「久しぶりね千夏。もう高校生だっけ?」


「ううん、今中三。部活も引退したし、これから受験生だよ」


それを聞いた叔母は、やや眉をひそめた。


それに合わせて、私は亀のようにゆっくりと首をすくめた。今までの経験上、この後に叔母の小言が続くのがわかっていたから。


「あのね、千夏……これから受験生じゃなくて、もうとっくにじゅけ」


「千夏ちゃん、ちょっとその写真私に見せとくれ」


祖母は叔母の小言を遮り、私へ細い腕を伸ばしてきた。


「ちょ、母さん!? 今は私が千夏に大事な話を……」


「ああ、すまないねぇ」


と断りを入れ、祖母は私に目配せをしながら写真を受け取った。


そう言えば昔から事あるごとに、祖母は私に助け船を出してくれてたことを思い出した。


煮え切らない顔をした叔母は、おもむろに立ち上がると、「母さん、私おはぎの材料買ってくるわ。それから千夏。ちゃんと、畳を綺麗に拭いておきなさいよ」


叔母は肩を怒らせながら勝手口から出ていってしまった。





「雅之と千穂ちゃんね。懐かしいねぇ」



祖母は暫く写真を眺めた後にそう呟いくと、老眼鏡を外し、目を細めてカレンダーを見た。


「おばあちゃん、お母さんの事、何でもいいの。おばあちゃんの知ってる事、全部教えて! お願い……」


私は机に肩をつっぱりながら両手を置き、祖母に迫った。


祖母は唇を小さく閉開し、何かを数えているようだ。


「千穂ちゃんが亡くなってから十四年。千夏ちゃんが雅之と二人だけで暮らした十四年。随分と寂しい思いをしたでしょう?」


祖母は遠くを眺めるような顔で私に静かに語りかけてきた。


「正直わかんない」


感情の裏返しからか、私は素っ気なく返してしまった。本当は……。


「千夏ちゃん、智恵子を恨まないでおくれ。あの子はね、あなたに特別な感情を抱いてるの」


祖母は私の知りたい事よりも、叔母の話を先に持ち出してきた。特別な感情とはなんだろう。


祖母のゆったりとした口調のお陰で冷静になりつつあった私は、ひとまずそのペースに合わせることにした。


「千穂ちゃんが亡くなったあの晩。病室で誰よりも大きな声で泣いたのは、千夏ちゃん……あなたの叔母、智恵子だったわ」


私は、信じられないといった具合に目をまん丸にした。


祖母は私の反応を予想していたのだろうか、少しだけ口元を緩ませた。


「幼馴染みってね、なにも同い年だからってわけじゃないのよ? 少年時代を共に駆け抜けたら、それだけで幼馴染みになれるの」


私は首を傾げた。話の意図が今一見えてこなかったから。


「智恵子と千穂ちゃん、それから関口さんとこの明子ちゃん。ああ、そうそう、雅之もね。小さい頃からずっと一緒だったのよ、竹馬の友ね。ああ、幼馴染みってこと」


それは私の知っていた話に一人多く含まれていた。叔母さんも一緒だった……の?


「あら、その顔は知らなかったってことね」


祖母は私の困惑気味の顔を見て、そう思ったらしい。


「智恵子と千穂ちゃんは、そりゃもう本当の姉妹みたいでね、いつもそこの縁側であそんでいたわ。千穂ちゃんは、とっても大人しくて優しい子。智恵子の男勝りな性格とは不思議と馬が合ったみたいね」


私はゆっくりと語られ始めた物語に、徐々に飲み込まれていった。




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