第二章 日暮れの邂逅-2
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風が悲鳴を上げていた。
限界を遙かに超す速度で空を駆けさせられている風精達の悲しい悲鳴だ。
そんな悲鳴を上げながらも、それでも彼らは決して逃げない。裏切らない。ルルアの願いを叶えるためにひたすら空を駆ける。
(ごめん……)
声を出すことも叶わない衝撃に耐えながら、ルルアは心の中で小さく呟く。
そう思っても緩めることはできなかった。
心が急く。
早く行かねばという焦りに早鐘のように心臓が鼓動を重ねている。
ルアルとの繋がりが潰えた今、唯一の手がかりは握りしめた小さな水晶玉だけだ。
左の掌の中で生きているように鼓動している、今は闇色に染まったその水晶が反応する間に、《ルア=カレルアム》のところにたどり着かねばならなかった。
水晶玉が左手の中で反応を示すのには理由がある。
御子の位を継ぐ時に、御子の力と同時に受け継ぐものがある。
錫杖と剣だ。
光と再生の力を持つルルアにはその光を象徴とする錫杖が、左手に封印してある。同様に兄の右手には闇と破壊の力を象徴する剣が封じられていた。
その剣と、ルルアの右手に封じられている錫杖が、主を失った力の欠片を通じて引き合っているのだ。
けれどその反応も、いつまで続くのか解らない。それが失われてしまえば彼女は手がかりを完全に失ってしまうのだ。
《ルア=カレルアム》に辿り着くための手がかりが。
だから、無茶を承知で彼女は風精に頼む。
〈お願い! もっと速く!〉
念話で呼びかけるルルアの声を聞きとがめたのは、風精ではなく彼女の相棒のリリィだった。
「リンファ! 無茶だみょ! 風精達もだけど、これ以上はリンファの体が持たな……」
〈それでもいい!〉
リリィの言葉を遮るようにルルアは叫んだ。
〈それでもいいの! 例えその次の瞬間に命が潰えたとしても!〉
《ルア=カレルアム》と相見え、そして例え一撃でも攻撃を加えられたのなら。
この、痛みを思い知らせられたのなら。
(あそこだ!)
ルルアは眼下をものすごい勢いで過ぎていく景色の中に、一つぽっかりと空いた穴のようなものを見つけ、心の中で叫び声を上げた。
それは、闇だ。凝った闇の塊だ。
まだ、大丈夫。間に合う。
〈あそこへ駆けて!〉
ルルアの声に、風精が答える。突如始まった落下に、ルルアの肩にしがみついたリリィが悲鳴を上げた。
限界を遙かに超えた速度での落下に息はつまり、意識は飛んでしまいそうだった。
それでもルルアはじっと眼下に迫り来る森を、その中にいるだろう、兄の敵の存在だけをただ意識することでそれに耐えていた。
だからこそ、気づかない。自分の心によぎった、呟きの意味を。
まだ、気づかない。
◇ ◆ ◇ ◆
風精に無理を強いての三日三晩の強行軍は、リリィの言う通りルルアをもひどく消耗させていた。
地面に足を着いた途端、その場に崩れ落ちてしまう。
一緒に放り出されたリリィが血相を変えて駆け寄ってきた。
「リンファっ、大丈夫にゃっ?」
リリィの声がガンガンと頭に響く。自分の鼓動さえ激痛に感じる。
そんな状態でありながら、ルルアは腕に力を込め、身体を起こそうとした。けれど叶わない。再び崩れ落ちてしまう。
ぱしゃん、と音がして、右手を冷たい感覚が包み込んだ。
喘ぐ呼吸の下でうっすらと目を開き、その時ようやく自分が湖らしき場所の湖岸にいることに気づく。
山に囲まれた湖だからか、すでに空は紅く暮れ始めていた。
影となって沈み湖に映り込む山々の姿を、ルルアの起こした波紋がゆらゆらと揺らしていく。
(あ、れ……?)
ぼんやりとその様を眺めていたルルアは、不意に体に起こった変化に軽く目を見開いた。
(身体に力が、戻ってきてる?)
それだけではない。あれほど苦しかった呼吸や全身を苛む痛みも和らいでいる。
ルルアは左腕を支えにゆっくりと上体を起こした。
「聖域、なのね……」
よく見ると湖には、リリィのように意志を持つことのできない、原素の力そのものに近い精霊達がたくさんいた。水の中に、包む空気に、森の梢にとけ込んだ彼らは、湖を護っているようだった。
こういう場所は位の高い精霊などが住処にしていたり、生まれ故郷だったりするのだという。
だからこそ小さな精霊達は湖を護ろうとし、そうして力を帯びた湖の水から偶然とは言え右腕を浸らせたルルアへ優しい癒しの力が流れ込んできたのだ。
静謐な水から力を得たルルアはゆっくりと身体を起こした。
同時に、その時初めて、守護精霊の顔色と声音が変化していることに気づく。
「リンファ! 早く立つみょ! 凄い気配が近づいてきてる!」
せっぱ詰まったような声に驚いてルルアは立ち上がった。
「こんなの、勝てるわけが……」
ルルアの腕を引いてその場を離れさせようとしていたリリィは、言葉を最後まで言うことができず凍り付いた。
ガサッという音とともに森が割れた。
まろぶようにして男が転がりでてくる。
「水っ……て、嘘! 人がいる!」
そう言って顔を上げた男の顔を、ルルアはゼンマイの止まった人形のように動きを止め、凝視した。
整った顔立ちの、優しげな雰囲気の、青年。
その髪と瞳は、鉱石のように――真っ青だった。
「おま、えは……」
握りしめた左の拳の中の水晶玉が、今までにないくらいに強い鼓動を打ち、まるで火傷しそうなくらい熱くなっていた。
(人……?)
一瞬戸惑う。
正体の全くわからない相手だったから。漠然となにかとても恐ろしい化け物のようなものを想像していた。だから、色彩以外あまりに凡庸と言えるその青年に呆気にとられたのは確かだ。
けれど、ルルアの中の全ての感覚が指し示している。
これが、探していた相手なのだと!
「見つけた!」
喘ぐようにルルアは呟いた。
「ようやく見つけたわ、ルア=カレルアム!」
自分でも驚くくらいの低音だった。
獣の唸り声のようだ。そのあまりの恐ろしさに、世界中が恐怖に震えたかのように空気がぴりりと凍り付いていくのがわかる。
沈んでいく太陽すらその動きを止めたように見えた。
「ルアルの……ファンシェの仇!」
言い放ったルルアは、微かに目を眇めた。
燃える――燃えている、湖が、空が、夕陽に焼かれて。
でもその炎よりもずっと昏く激しい炎が身体に宿っている。
憎しみ、恨みそんなものでは表しきれない感情が炎となって身体を焼き、恐ろしいほどの熱に支配されている。
頭の後ろ当たりからどろりと溶けていきそうなほどだ。全身が心臓になったかのように激しい鼓動が脈打ち、おかしなくらいに気分が高揚していた。
「ル=ルア=レーラ=ライナレジアの名にかけて、お前を滅してやる!」
叫び、ルルアは右耳の耳飾りを引きちぎった。
金でできた留め金がはじけ飛び、無理矢理外されたことで歪んだ耳飾りの芯が彼女の耳朶を傷つける。
白い首筋を、赤い血が一筋伝った。
その様を、青年は呆然と見上げていた。
記憶をなくし、未だこの状況も掴めていない青年は激昂する少女を止めようとはした。けれどその、白い肌と紅の対比の異様なほどの美しさに息を呑んでしまう。
まるで激しく燃える真夏の太陽のよう少女の眩しさが、青年から言葉を奪う――――
「リリィ! 下がって!」
ルルアは湖に右手を浸した。その手の中には、耳飾りからはぎ取った水の魔石がある。
「水の精霊を呼ぶわ!」
遠い昔《リズナ=アース》から御子達に与えられたもう一つの恩恵がある。それは御子だけが喚び出すことを赦された強大な存在。
力では劣るだろう自分が勝てるとするならば、その存在を喚び出すことだけ。
「この水をもって聖水とする!」
手にした耳飾りをきつく握る。
すると青い魔石が形をなくし、手の中で水へと還った。指からこぼれた水は玉となり浮き上がる。
「高貴なる者を産み育みし水よ、その秘めたる力を表せ」
浮かび上がった水がさらなる光を放つ。
それを指ですくうと、宙に突き出す。そしてゆっくりと円を描き出した。その軌跡のままに蒼い光の円陣が形成されていく。
「多くを恵み養う海、大地を巡り続ける果てなき川、天より注ぎ大地潤す恵みの雨。天に神立ち、地に神座す時生まれし、汝水の名を持つ気高き獣」。
ルルアの髪が浮かび上がり、足元の水が抉られるように渦を巻き始めた。
描く魔法陣には複雑な魔法印と、中心に、《門》。それは召喚陣だ。
印の複雑さが道を繋ぐことの困難さを、門の大きさが呼び出す存在の大きさを表す。
描かれた陣は大きく複雑で、招かれる存在が高位で、とてつもなく大きな存在であることを示していた。
「生まれし水に満ちる力に、我が声に、応えよ、来よ、聖獣の王」
右手を当てる。魔法陣の光が強くなりさらにその円周を増した。
「我ル=ルア=レーラ=ライナレジア! その名にのみ赦されし古き盟約を以て汝に希う。疾く来よ――水の聖獣王ヴォーガイム!」
輝きが閃光に変わった。軋みながら異空とこの世界とを繋ごうと口を開く門から、咆吼が鳴り響く。
衝撃が、ルルアの全身を襲った。
何かとてつもなく重いものが自分を押し潰そうとしているかのようだった。
(こ、んな……)
歯を食いしばり、負荷に耐える。
しかし、あまりの重圧に膝をつきそうになる。精霊よりも遙か高位にある霊的存在、聖獣の王。召喚の負荷は充分予測していた――はずだった。
(でも、これほど、なんて……これは、大きすぎる)
冷静さを欠いていたルルアは気づいていなかったのだ。召喚陣が時折曖昧に揺れていたことを。そしてまた、それの示す意味にも。
(――押し返される!)
あまりの重圧に、ルルアはとっさに左手を掲げた。
それは、押し返されるのに対して反射的に行った行為に過ぎない。
けれどその瞬間、まるで爆発したかのように両手から力が放たれた。
訪れたばかりの夜を引き裂くように、目映い流星が空を流れた。初めは閃光。それが、ゆっくりと色を帯びていく。
激しく光りながら落ちてくるそれは、暮れていく太陽に似ていた。
それを見ながら、ああ、この色だ、とルルアは思う。
胸を、全身を支配する感情の示すその、色。
(昏くて、それでいて熱くて激しい色。全てを染め上げて吹き荒れる嵐のように感情をさらっていく――紅!)
爆風が吹き、水面が半球の形に抉られていく。
その小さな太陽は水面に落ちる直前、落下を止めると柱のように伸び上がった。爆風が取り巻くようにしてそれを包みこむと、一瞬にして色づく。
そうして湖面に降り立ったその存在は獣ではなく、人の形をしていた。全身を見たこともない造作の革製の黒い服で包んでいる。
しかし一番目を惹くのは、人の姿でも服装でもなかった。
その、色だ。
水が属の王を召喚したはずなのに、纏っているその色彩は、水を象徴する青ではなく、鮮やかすぎるほどの紅なのだ。髪も瞳も。
まるで彼女の中に渦巻く感情の色を紡ぎ出してしまったかのように。
「我を召喚せし者よ」
その声に、ルルアも、そして対峙した青年も気圧された。ただ発しただけの声に恐ろしいほどの力が宿っている。
「古き盟約に従い、汝を守護しよう。汝の願いはなんだ?」
低く厳かな声。声を失って見つめていたルルアは一瞬、迷った。
感じる違和感、現れた存在の纏う色。もしや誤って強大な力の魔物を召喚してしまったのではないかと、迷う。
けれど――
(私に迷う時間は、ない。何を利用してでも目的を果たさければ)
一度、しっかりと瞬きをした。すべてを黙殺し、深い意識の底へ迷いを沈めるために。
「その者を捕らえてください!」
ルルアが言い切るのと、湖面に立つ存在が動くのと、果たしてどちらが速かったか。
気がつくとその姿はかき消え、青年は地面に組み敷かれていた。
「……願い通り捕らえたぞ。それで? 殺していいのか? ならばたやすい」
ルルアは「殺してください!」と叫ぼうとした。が、何かに邪魔され、声が出せない。
「―――!」
何度も唇を開いて閉じてを繰り返す。けれど自分の身体が自分のものではないかのように、音を紡ぐことができない。
結局深い溜息を一つ吐くことしかできなかった。
(いえ、まだ聞かなければならないことは沢山あるわ)
そう自分に言い聞かせると、頭を振った。
「……話がしたいのです。まずは、身体の自由を奪い、魔力も振るえぬよう封印を」
答えたルルアに、聖獣の王は不服そうに鼻を鳴らし立ち上がる。同時に組み敷かれていた青年も操り人形のように起き上がらされた。
「望みを果たすがいい」
言って聖獣王はふわりと浮き上がると、すっかりと暮れて闇色になった空に足を組んで腰掛けた。
それを視界の隅でとらえながら、どこか情けない表情すら浮かべた青年に、ルルアは静かに問うた。
「お前の目的は、なんだ?」
低い声で一言問うと、先ほどの呪縛が嘘のように問いが溢れ出てきた。
「なんのために破壊行動を繰り返す? 街を焼き、罪なき人々の命を奪い、残された者達に絶望をもたらす?」
渦巻く感情を抑えて慎重に告げていたつもりだった。
けれど次いで、なぜ、と呟いた時には声が震えていた。
「なぜ、ルアルを――私の兄を、殺した?」
投げかけられた言葉に、青年の目が見開かれる。
心底、驚いたかのように。
「答えろ! 蒼の魔物、ルア=カレルアム!」
声に力がこもった。言葉が風となってその蒼の魔物を襲う。
刃となった風がその頬と肩を深く抉った。
痛みに顔をしかめた青年は、その顔に怯えを滲ませ、蒼の瞳を頼りなげに揺らしながらルルアを見上げてくる。
その様は、まるで普通の人間のようだった。彼は破壊の神と言われたほどに凶悪な、魔物のはずなのに。
長い沈黙の後、震えた声で青年が告げる。
「――俺は……俺には、わからない」
告げられた言葉に、ルルアは目を剥いた。
「な……!」
絶句するルルアの目の前で青年は頭を抱え、呟くように続けた。
「ほ、本当に知らないんだ! 何もわからないんだよ! 自分が誰かも、どうしてここにいるのかも、ここが、どこなのか、も……」
「ふざけるな!」
「本当なんだ!」
青年が顔を上げた。その青い瞳は、まるで救いを求めるかのように、ルルアを見上げる。
「ルアなんとかっていうのが俺の名なのか? 俺は一体何をした? 教えてくれ……」
気づいたらルルアは腕を掴まれていた。爪が食い込むほどに。彼は泣きそうな顔をしていた。
「俺は一体、誰なんだ?」
一番問いたかった言葉なのだろう。眼差しは真剣そのものだった。
だがその答えを持たないルルアは立ち尽くした。目眩すら、する。
(これは、何? ようやく見つけた手がかりなのに、ルアルを殺した仇のはずなのに……それが、こんな――)
高くから傍観していた聖獣の王が、不意に口を開いた。
「一時休戦すべきようだな、御子よ」
溜息混じりのその声を聞き、ルルアは声の方を仰いだ。すいっと空を滑り、聖獣の王はルルアの傍らに着地する。
「それに何を聞いたところで得たい情報は得られまい。冷静を欠いては事をし損じる。少し休め、御子。お前に必要なのは、休息だ」
そう告げて聖獣王が手をかざすと同時に、睡魔が押し寄せてきた。ルルアはそれに抗おうと宙に手を差し出す。
それを誰かがとった。
そこまでしか覚えていない。
流れ込んできた眠りの魔法に、結局ルルア逆らえず、眠りの縁に落ちたのだ。
(ああ、時間がないのに――)
ルルアは、ただ、それだけを思った。