第一章 羽ばたく一翼-3
3
ギイクのおかげで稽古は散々で、得意なはずの歌ですら歌詞を間違え音を外し、指導官達にこっぴどく怒られた。
そうして気持ちと共に重くなった身体と、すでにのしかかられているような感覚ですらある祭礼服を引きずるようにして居室に戻ると、ルルアは世話を焼こうと押しかけてきた侍女達を追い払い、私室に引きこもった。
鎧戸を下ろし、戸口の幕を下ろす。
そうすると日中とはいえ東向きの窓から入り込む光も少なく、部屋は自分の手の平を見るのがやっと暗いの暗闇に沈んだ。
神官達の用意した、成金趣味としか思えないごてごてとした祭礼服服なんて一秒も着ていたくなくて、布地が悲鳴を上げるのもかまわず、身体からはぎ取ってやり、額飾りにつけていた羽根の形をした金属も取り外すと、寝台脇の机の上に投げ捨てるみたいに放った。
キィンと悲鳴のような甲高い音が鳴る。
《至上の海》を配した金の額飾りだけは常に着けていなければいけないのでそのままだったが、衣服は身につける気になれず、ほとんど下着姿に近い姿でルルアは寝台に転がった。
両手を大きく開いて寝台に備え付けられた天蓋の輪郭をぼんやりと眺めながら、呟く。
「温情って……きっついなあ……」
あからさまな周囲の自分への評価も、なにより、兄の帰還を誰も信じずにいるという事実も。
「あの調子だともう、次の候補者争いが始まってるのかしら」
そう考えると、ギイクの態度も頷けた。早く辞めて欲しいと思っているのだろう。
なにせルルア達兄妹が神殿に来る前、御子の最有力候補だったのはギイクとザイツの兄弟だったのだ。
大人でも敵わないほどの強力な原素魔法を操り、自他共に認める神殿一の使い手だった双子の兄弟。四年前ルルアが神殿に上がった時、彼らはすでに御子になったかのような扱いを受けていた。
だがルルアの兄、ルアルのもつ能力は、そんな彼らの能力故に培った自信をいとも簡単に踏みにじれるほどの代物だった。
《言霊使い》――それも言葉一つで天候すら操り、森羅万象をも支配下に置くほどの使い手であるルアルの能力はギイクとザイツを遙かに凌駕していた。
そのために彼らがどれほど悔しい思いをしたか、想像に難くない。周囲の態度も一転したからだ。
特にギイクは権力に聡い。
強い者におもねる代わりに、自らが強者になる事への執着も強い人種だ。相当な屈辱だったろう。
だが、彼は元が強者に逆らえない人種だ。それを真っ当にルアルにぶつけることは絶対にしなかった。
ぶつけるのはいつも自分より格下の妹の方――つまりルルアだ。
ルルア自身は精霊達と話をしたり触れ合うのは好きだから決して卑下はしていないが、『世界を護る』というレジア達の中において、他者に“お願い”しなければ力を振るえない《精霊使役》の能力は、実は評価が低い。最下位に位置づけられ、邪道だ、とすら言う人もいる。
だからなおさら鬱屈をぶつけるにはちょうどよかったのだろう。
でもそれはなにもギイクだけではない。
この神殿にいるレジア全てがそれぞれ自らの力に誇りを持っているが故に、ルルアの能力と、そしてそんな能力者が御子であることに不満を持っている。
稽古場にいた者達の視線はその現れだ。
ルルアを最強のライナレジアとして自分達の上に担ぎ、神事をやらなければならないことに不服だと思っているのだ。
兄のできがよかったからなれただけのおこぼれの御子、仮初めの御子、お飾りの御子――それが周囲のルルアへの評価だった。
それでも、御子になったからには頑張ろうと、能力面で不足する部分はなるべく社交場に出て王侯貴族達と接し、人脈と情報網を作っていこうと努力してきた。
そのために入手できた情報だって沢山ある。
だがその努力と努力故に築け始めていた自信をいとも容易く切り裂いて、人々の中傷は胸に切り込んでくる。
隣に兄がいないからなおさらだった。
崩れそうになる心を支えてくれる人がいない。
「権力……」
呟いて、腕で顔を覆った。
「そんなもの、なにがいいのよ……」
欲しければくれてやると何度叫びそうになったことか。
なりたくてなったわけじゃない。
生きていくための場所が必要で、そのために訪れたのがこの神殿で。
たまたま選ばれてしまっただけなのだ。自分も、兄も。
だからこそルルアには、理解できない。
ギイクの、あからさまな権力欲も。
そして、それを遙かに上回る、彼の叔父であり祖父である、神官達――つまり先々代と先代の御子達のそれも。
実を言えばギイクの権力欲など、神官達に比べれば可愛いものなのだ。
本来御子は、前の御子が亡くなった場合を除き、《世界》の声を聞くことのできるという洞窟の中でなんらかの天啓を得た者が御子を引き継ぐことになっている。それを《託宣の儀》という。
なんらかの資質が必要なのだろうが、どのような判断基準で選ばれるのかは誰もわかっていない。だからこそ、最強という地位からつい誰もが力の強弱で可能性を図ってしまうのだが、力が全てではないらしいことはこれまで選ばれた歴代の御子達を見れば明らかだ。
もちろん、血縁なんかはそれ以上に関係がない――はずだ。
だが奇妙なことにここ数代、ずっと縁続きで御子が選ばれている。
先々代はその前の御子の弟子に当たる関係だったし、先代に至っては完全に血縁。そして、縁故によって御子が選出されればされるほど、彼らの一族の権力も増していっていた。
その裏に恣意的なものがあるのは、明らかだ。
だから、実を言えばギイク達兄弟が最有力候補とされていたのは、実力以外の評価もあっただろうという邪推もできる。
表立ってそれを口に出す者はいないし、ルルア自身噂話をするような間柄の人間は神殿にいないので、その邪推がルルアだけの考えなのか、気づいている人間は多くいるのかはわからない。
ただ、はっきりしているのは、ルルア達が御子に選ばれたのは想定外、と言うことだ。
御子を選ぶ《託宣の儀》で想定外の出来事が起こったのか、それとも《ルア=カレルアム》の猛威がそれまで東の大陸だけに留まっていたのに、西大陸にまで及ぶようになったからなのか。
ルルアは、後者だと見ている。
そもそも先代達は、まだ体力的にも魔力的にも充実している年齢であったのにも関わらず退位を表明したのだ。権力に固執する人間がそれを手放す理由なんてあとは命くらいしかないだろう。
ただ、それで次の御子を自分の甥達にしてしまっては意味がない。甥達が《ルア=カレルアム》討伐に出かけて死んでしまったら、次に操れる駒がなくなってしまう。
そこにおあつらえ向きに現れた兄妹。
能力も高く、《ルア=カレルアム》を倒してくれる可能性は高い。
だから彼らに御子位をいったん譲り、騒動が収まった後なんらかの手段でそれを自分達の一族に取り戻そう、そういう魂胆だろう。
「それが、結婚ね……」
呟いて、吐き気がしたルルアは枕に顔を埋めた。
先日、夏至の大祭の終了後に、その場に集まる全ての国の使者や王族達に向けて、大々的に発表された事項がある。
それが、ルルアとマーナ王との結婚だ。
寝耳に水の話だった。全く聞いていなかったし、もちろん受け入れるつもりもなかった。
だからこっぴどくふってやったのだが――全く、神官達の権力欲は限りがない。
この結婚にはもう一つの意図がある。
マーナ国王との繋がりの強化だ。
本来ならどの国家にも中立であるべき神殿だが、今は完全にその立場を逸脱している。本来レジア大陸にあるべき神殿は二十年ほど前、先々代の御子の時代に西大陸のマーナ国内に移転した。
表向きは両大陸への行き来に半月もかかる不便さを解消するとのことだったらしいが、新たな神殿の建築費用もなにもかもマーナ王国からの献金でまかなわれ、しょっちゅうマーナ王が神殿を訪れたり神官達が王宮を訪れたりしている現状を見れば本意は明らかだ。
それでもどの国も文句を言えずにいるのはそれだけ神殿の権威が強いという証明ではあるのだが、それもいつまで保つかわからない。
マーナから抑え付けられている国々――特に東大陸の国々はもう、限界だ。
「《ルア=カレルアム》の脅威があるというのに、人々の心は戦に向かっている……でもそれを、私には止める術がない」
兄のおこぼれで御子になったルルアの声を聞いてくれる人間なんていないどころか、彼女自身結婚を理由に退かされようとしている。
悔しいのを通り越して、泣けてくる。
「無力だわ……無力すぎる……」
ごろりと転がって、ルルアは仰向けになった。
見つからないように密かに腰に巻き付けておいた飾り紐を外し、その先に括られていた水晶玉をかざす。
小さな、小指の第一関節ほどの直径のその水晶玉は、光のほとんどささない部屋の中で、闇に溶けていた。その水晶玉に向かって、兄に呼びかけるように囁きかける。
「帰ってきてよ、ルアル……こんなところに、いつまでも一人ぼっちにしないで……」
『僕がいない時、君を守るように』
そう告げて、旅立ちの朝に兄が彼女の手に握らせた水晶玉は冷たく沈黙していて、とてもではないけれどルルアをこの最低な気分からすくい上げてくれるようには思えなかった。
するとぽっと、水晶玉を透かすように橙色の光が差した。
「リリィ?」
眩しくて目を細めたルルアが問いかけると、少女くらいの年齢で、けれど掌大の大きさになったルルアの守護精霊は、答えるように瞬きを強くした。
ルルアが起きあがると、同時にリリィは身体をいつもの童女の姿に変えて身体を包む炎を消し、膝の上に載ってくる。
途端に部屋はまた薄暗くなった。
「どうしたの? リリィ。遊んでて良かったのに」
そう言って、ルルアは薄暗い部屋の中で探るようにしてリリィの顔を覗き込んだ。
精霊はもともと気まぐれなものらしいが、特に子供であるリリィはそれが顕著で、いなくなることはしょっちゅうだ。
一応夜になったら、母体であるルルア達の両親の形見の燭台に戻っては来るのだが、どこかに行っていたリリィがこうして喚んでいないのに戻ってくるのは珍しいことだった。
今日のようにルルアの方が用事で放置した場合、勝手に遊びに行ったっきり帰ってこないことが大抵なのに。
「リリィ?」
ルルアが再度呼びかけると、膝によじ登ったリリィはそのままルルアにぎゅっと抱きついてくる。
まるで本当の人間の子供のような仕草に戸惑いながら、ルルアはそっと抱き返した。
精霊のはずなのに、リリィの身体はぬくぬくと暖かくて、ルルアは無意識に朱色の髪に頬を寄せた。
暖かいのは炎の精だからかしら、なんてことを思いながらも、どこか沈んでいた気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
「――姫御子様」
そんな彼女にふと、下がらせたはずの侍女から声がかかる。
恐る恐るといった風の声に、一人にして、と声を荒げそうになる。けれど次いで囁かれた言葉に、ぐっと呑み込んだ。
「姫御子様にお目通り願いたいと、ザイツ=ライルファルト様がお越しです」
「ザイツが……?」
呟き、思わず腕の中のリリィを見た。
けれど先ほどのリリィの光でちかちかする目がまだ暗闇に慣れておらず、表情は読みとれない。
ただ、どこか不安そうにしている気配は感じ取れた。
「なぜ……」
思い悩むが、相手の意図は全く考え浮かばない。
ギイクの弟で、おそらくは彼と同じようにルルアに対して複雑な感情を抱いている相手。
だが、その思考はギイクほど分かりやすくはない。
ルルアが御子になってから三年、一度も会話どころか声すらかけてもらったことがないからだ。
だが昔、御子になる前はよく声をかけてくれた。ルルア達に親しみを持ってくれる唯一の相手だったと言っていい。
実を言えば、ルルアに対して周囲が辛辣な態度をとるのは御子になったからではない。その前、二人が神殿に上がった時からだった。
双子のライナレジア候補生達は強力な競争相手の出現に苛立ったし、レジア達もただ双子だというだけでライナレジアになる資格を得られる少女達の幸運をねたんでいたからだ。
そんなルルアを大概は兄が庇ってくれた。でも兄すら庇えない時は絶対にある。
そんな時彼女を護ってくれたのは、何故か一番の競争相手であるはずのザイツだったのだ。
兄がいない時に真っ先に駆けつけて助けてくれた三つ年上の少年は、その頃のルルアには第二の兄のような存在だった。
実を言えば本当の兄には言えないほのかな想いが心に根付き始めてもいた。
けれどその関係は、ルアルが御子として選ばれ、その半身であるルルアも御子になった時すべて――崩れ去った。
ギイクのようにちくちくと嫌味を言うようなことはない。だが、なにか不満そうにルルアを睨んでくるようになった。
その視線が怖くて、御子になってしまったことに引け目を感じて、そしてザイツも他の人と同じだったのだと失望して。ルルアの方も声をかけることができなくなってしまった。
そうしてもう、三年も経つ。
「どうされますか?」
侍女から問われ、ルルアは少しの逡巡の後、行くわ、と答える。
わからない相手ならまず、話して出方を見るしかないだろう。
「身なりを整えるから、少し待つように伝えて」
言いながらリリィを寝台に降ろすと、側に置いてあった普段着用の祭礼服を身につける。
「リリィはここで寝ててもいいわよ」
言うとふるふるとリリィは首を振り、着替え終わったルルアの手をきゅっと握った。
「リンファ」
呼びかけられ視線を落とすと、金色の眼差しが真っ直ぐにルルアを見上げていた。
その真摯さに気圧されて呼び名を直すどころか息を呑んでしまう。
「リリィはずっと側にいる」
真っ直ぐだけれども、その瞳はどこか揺れているように見えた。
「側にいるから、それを忘れないで……」
「……ザイツとのやりとりにそこまで敏感にならなくてもいいのよ? 私一人だって乗り切れるし」
リリィの言葉に半ば気圧されていたルルアは、吐き出すように囁きかけた。
けれどリリィは、そのことじゃない、とふるふると首を振るとまた、金の眼差しでじっと見上げてくる。まるで祈るように。
「忘れないで……」
繰り返された言葉に今度はどこか違和感を覚えた。
けれどその正体は掴めない。ルルアは仕方なく、戸惑いながらもこくんと頷いた。
するとリリィが小さく笑ったので、ルルアは少し肩をすくめて歩を進めた。寝室を出て、応接間に向かう。
「お茶を入れてもらえるかしら? その後は下がってもいいわ」
途中寝室の外で控えていた侍女に声をかけ、客間の入り口に立つと、一つ息をついた。
(……ここからは、気合いを入れないとね)
意識してお腹に力を込めると、客間と通路を隔てる幕を払った。
「お待たせ致しました。ザイツ=ライルファルト殿」
声をかけると、窓際に置かれた白い椅子にかけていたザイツが、弾かれたように立ち上がり、振り返った。
この三年、まともに向き合うことのなかったザイツの姿を正面に捉え、ルルアは微かに息を呑んだ。背が伸び、顔立ちは大分大人の男性のそれになってきていて――そんなことに思いがけず動揺する自分に舌打ちをしたくなる。
ルルアは沸き上がった動揺を吐き出すように一つ深呼吸をして深い瞬きをすると、心がけて余裕を保った声で言葉を続けた。
「どのようなご用件でしょうか?」
問いかけると、少年はきりりとした眉を不快気にしかめた。
「嫌味っぽくへりくだらないでくれないか。本来なら俺の方が礼を取るべきなんだし……だがそれも面倒だから普通にしてほしい」
最後の声変わり期なのか少しかすれた声で言う少年に、ルルアは笑みを浮かべた。思い切り外行き用の微笑みを。
「ではザイツ、一体なんの用かしら? あなたが来るなんて相当な案件なんでしょうね。それとも、弟君が言い逃したことをわざわざ伝えに来てくれたのかしら?」
ルルアがまくし立てるように言うと、ザイツは不快気に歪めた眉をさらに潜め、眉間に深い皺を刻んだ。
「違う。ギイクのことは……謝りにきたんだ」
「謝る? あなたが?」
目を丸くしたルルアに、ザイツは口をへの字に曲げた。
「不肖とは言え一応双子の兄の不始末だからな」
「ふうん?」
内心訝しみながらも、ルルアはザイツの向かいに腰を下ろした。突っ立ったままのザイツにも席を勧める。
「て、なんだよそのちびは」
その時初めてザイツはルルアと共にいたリリィに気づいたようである。母にするように膝に載って甘えているリリィを指さす。
「一応守護精霊だからね。側にいる時はべったりしていたいみたい。あまり気にしないでよ」
ルルアがそう告げる傍らで、侍女が頼んでおいたお茶を持ってくる。
ルルアはいったん会話を打ち切って、侍女が茶器を置いた侍女が去るのを見届けてから会話を再開した。
「それで? それが本当の目的というわけでもないんでしょう?」
「いや、それもあるが……」
「私が御子になってから三年近く話しかけもしてこなかったあなたが、わざわざ私の居室まで来て、目的がよくある悪口の謝罪じゃ、お粗末すぎるわ」
「それは……」
ザイツはなにかを言いかけ、口を開く。
けれど諦めたように口を閉じると、鼻で溜息をついてふっと視線をそらす。
「……いや、今はそんなことを話してる場合じゃないな。俺が来たのは、マーナ王との結婚の話だ」
「…………わざわざ、薦めに来たの?」
「ちがう!」
声を荒げ腰を浮かせたザイツの衝撃で、卓子の上の繊細な茶器が悲鳴のような高い音を立てた。
それに、対峙していたルルアは呆れの溜息と共に手をひらひらと動かして、座るように促した。
「……少し落ち着いて。お茶でも飲んだら?」
「あ、ああ」
促され、自分が感情的になったことに気づいたザイツは、言われた通り茶器に手を伸ばした。それからふと、手を止める。
「……なんだこの紅茶は? 花が入ってるぞ」
「東大陸産のお茶らしいわ。アリアレリアっていう小さな花のお茶。私達が紅茶が好きだって言うの聞いてわざわざ東大陸から行商が来てくれたんだって」
「……らしいとか、だってとか、お前が買ったんじゃないのか?」
「買ったのは、ルアルよ」
答えると、ザイツは苦い顔をして押し黙った。
「ルアルが買って、少し分けてくれたの」
なぜわざわざ御子であるルアルが行商の商人に会って買い求めたのか。そしてなぜこの茶葉なのか。
それを教えてくれることはなかったのだけれど。
「お茶の話はいいでしょ、もう。結婚の話だったわよね」
気まずげにするザイツの態度に少し苛立って無理矢理話を戻したルルアは、自分も紅茶を一口すすった。
「あの話なら断った。知ってるでしょ? あなたもあの場にいたんだから」
ルルアが一方的な婚約をマーナ王から言い渡されたのは今から二ヶ月半ほど前、夏至の大祭が終わった後の、御子とレジア達の労をねぎらうためと、各国の親善のために開かれた宴の席でのこと。
夏至と冬至の大祭は《復活祭》に次ぐ重要な祭であるため、各国の代表の参加が義務づけられており、その場には全ての国の代表と、そして、闇を象徴する御子であるため、光の恩恵を讃える夏至の大祭には部屋に籠もっていなければならなかったルアルを除く、全てのレジア達が参加していた。
そのためこの茶番とすら言えないような愚かしい騒動は、この神殿中どころか、世界中に知れ渡っているのだ。
「ああ……だが、叔父貴達は諦めてないんだろ?」
「……まあ、ね」
唸るように答えて、ルルアはもう一口紅茶を飲んだ。
「でも私はライナレジアだもの。絶対に受けるわけにはいかないわ」
茶器を置き、向かいに座るザイツを真っ直ぐに見据える。
「絶対に――」
そこまで、告げた時だった。
「――――――っ」
ルルアは突然、声にならない悲鳴を上げた。
「お、おい?」
椅子から転げ落ちたルルアに、ザイツが腰を浮かせた。
同時に、ルルアの膝から放り出されたリリィも主の尋常じゃない姿に気づき、駆け寄ってくる。
「リンファ? 大丈夫みょ!?」
「おい! どうした!?」
二人からの問いにルルアは激しく首を振った。
答えるどころか全身を襲う痛みに呼吸すらままならず、まるで二人の声が破鐘のようにがんがんと頭に響いていた。
身体を二つに引き裂かれていくような激痛に身をよじり、震える手で自らの身体を抱きしめながらもなんとか身体を起こすと、ルルアは全身全霊の力を込めて、叫んだ。
「駄目……! 駄目! 行かないで!」
これは、魂が感じている痛みだ。引きはがされるようにして、自分と、そして自分の半身との繋がりが、絶たれようとしている!
「逝かないで! ファンシェ!」
声にして放った言葉が、まるで呪いを解く呪文だったかのようだった。突然彼女の身体は痛みから解放される。
嘘のように静けさが世界に舞い降りていた。不気味なほどに。
「どうした? ルルア?」
ルルアの身体を支えていたザイツが、急に静かになったルルアに、声をかけてくる。
けれど驚愕に彩られたルルアはぼんやりと中空を眺めたままその声には応えず、ふらりと立ち上がる。
両腕に血が滲むほどにきつく爪を突き立てたまま、危なげな足取りで窓へ向かって歩く。
「ファン……?」
名を呟こうとして再びルルアは息を呑んだ。
繋がれた魂の糸を手繰ったその先にあるはずの彼の存在が――見いだせない!
「嘘……。嘘よ……」
呆然と呟き、胸を押さえる。窓辺に駆け寄り、身を乗り出し、声の限りに叫ぶ。
「ファンシェ! どこ?」
ルルアはそこの声に力を乗せて、喚んだ。兄の名を魂を。まだ繋がりがあると信じて。
「私はここよ! ファンシェ!」
――その叫びに、確かに何かが呼応した。
突然、あらゆる物が輪郭をなくした。
光が、音が、全てが失われ、代わりに絶対的な闇に世界が支配される。
手を掛けていた石の窓枠も、足を着いていた絨毯の敷かれた床も何もかもが闇に沈み、上も下もわからなくなったルルアは、目眩を覚えて倒れそうになった。
するとそれを、支えてくれる気配がある。
「リリィ!」
「ここに、いる、みょ」
手を握ってくれてはいるが、声は辿々しく力がない。闇の圧力に抗しきれないのだ。
「リンファ……これ……」
そんな中でそっと、リリィは何かをルルアの手に握らせてくる。
触れた感触でひんやりとした丸いそれが、腰ひもとして結わえ直した飾り紐に括った、水晶玉であることを知る。
(そう……ファンシェ、君は――!)
ルルアはきつく目を閉じた。
旅立ちが急で飾りは間に合わなかったが、祈りは込めてあると言って握らされた水晶。
ルルアを護るようにというのは彼の願いでもあるけれど、おそらく真意ではなかったのだ。
全てはきっと、この時のために。
「ここよ!」
ルルアはその水晶を高く掲げると、叫んだ。
恐らく、帰る場所をなくした闇は先ほどルルアが兄を喚ぶために放った声に呼応してここに降りたのだ。闇と対をなす光の力を持つ自分の元へ。
ルルアは大きく息を吸い込んだ。この闇の危険性は誰よりもよく知っていた。その場しのぎでも何でも、封じなければならない。
「お前の戻るべき場所は、ここにある!」
言葉に魔力を、声に絶対の意志を込めルルアは叫んだ。
闇は、意志のない力は、彼女が作った流れに引きずられるように収束した。
そうして、小さな水晶の中へ吸い込まれていく。
透明だった水晶が濁った。最初は灰色に、それからじわじわと底の見えない闇色へと変化していく。水晶が完全に黒に染まる頃、世界は再び光を取り戻し、物に輪郭が戻った。
ルルアは崩れるようにして座り込んだ。
肩で息をして、熱を持った身体を沈めようとする。
けれど、血は身体の奥底でまるで氾濫する川のように激しく流れ、胸はその動悸に痛みを訴える。ただ座っているだけで耳の奥で血液の波打つ音が聞こえた。
一度消えたはずの痛みがまた、じわりと襲ってくる。ルルアは身体をくの字に折ったまま、立ち上がった。
「大丈夫か? ルルア」
絶対的な闇のもたらした衝撃に打ちのめされていたらしいザイツが、椅子を支えになんとか身体を起こすと問うてくる。
「姫御子様!」
それとほぼ同時に、悲鳴のような声とともに侍女たちが部屋に雪崩れ込んできた。彼女らも突然の異変に動揺しているのだろう。血の気が引き、声も振るえていた。
それでも彼女らが動けるのは魔力がないからだ。強力な闇は身体の裡の魔力の律を狂わせる。そのため、一番の痛手を受けていたのは、強力な魔法を操れるだけの魔力があるザイツだった。
「姫巫女様! 大丈夫でございますか?」
「命は心得ておりますが、非常事態ではまず安否の確認をと」
「顔色が! 椅子にかけられた方が……」
「私は大丈夫。それより聞いてください」
石の窓枠にもたれかかるように身体を支えていたルルアは、次々に言葉を告げて駆け寄ってくる侍女ら制した。
それから背筋を伸ばすと水晶を握りしめた手を胸に当て、一つ息をつく。
「……みなさんに、お願いしたいことがあります」
「おい、それより休んどけって。すごい顔色だぞ」
「いいから、聞いて!」
ザイツの心配の言葉をも制し、ルルアは続けた。
「兄、ルア=ル=シーラ=ライナレジアがたった今身罷りました」
ルルアの告げた言葉に、そこにいた者達が凍り付く。
「世界の窮地に立ち向かうのがライナレジアの役目。次は――私の番です」
ルルアは窓に歩み寄り、枠に手をかける。
「ルルア!」
意図を察し、いち早く動いたのはザイツだった。
ルルアを捕まえようと手を伸ばしてくる。
けれどその腕が捉えるよりも、ルルアが窓枠の上に飛び乗る方が早かった。先ほどまで憔悴して膝を折っていたとは思えない俊敏な動きで窓枠の上に立ち上がる。
「神官様達にお伝え下さい。私も今から、ルア=カレルアムの討伐に赴くと言うことを」
「ば、かなことを、言うな!」
未だ闇の衝撃から立ち直れないのか、膝をついたザイツが叫ぶ。
「お前の兄貴が敵わなかった相手だぞ! お前に敵うわけが――」
「それでも! 行かなければならないのよ!」
ザイツの言葉を遮るようにしてルルアは声を上げた。
「私はライナレジアなんだから」
毅然と告げたルルアに、ザイツも心配げにしていた侍女達も気圧されて黙り込む。
「それに、安心して」
ふと表情を緩めたルルアは、どこか怯えたようである侍女達に微笑みかけ、それから顔を歪めている少年を見た。
かつては次代の御子にと、望まれていた少年を。
「私が死んでも、ライナレジアの代わりはいるわ」
次を託すつもりで告げた言葉だった。
けれどそれに、ザイツは、ふざけるな、と悔しそうに叫んだ。
「ライナレジアに……ライナレジアに代わりはいても、お前には代わりなんていないんだぞ!」
血を吐くような叫びにルルアは息を呑んだ。
(な、んで……)
深海紫の瞳が揺れる。
(なんでそんなこと、あんたが言うのよ……!)
いつも、いつもいつも不満げで苛立たしげな眼差しで、まるで早くその不釣り合いな地位を渡せというように睨んできていた少年が。
どうして今この時になってこんなことを言うのか。
死に向かうルルアを引き留めるような、そんな言葉を。
(でももう、遅い……私にはもう、時間がない!)
命を落とした兄の存在を追えるのは、その魂がこの世界から消えてしまうまでのほんの少しの間だけ。ためらう時間も別れを惜しむ時間も、ないのだ。
(せめてその言葉、もっと早く聞けていたら……)
爪が手のひらに食い込んで血が出るほどにきつく拳を握りながら、ルルアは漠然とそう、思った。
聞けていたらなにが変わっていたのかなんてわからない。ただ今よりは少しは違う気持ちと、状況で行けたかもしれない。
死地に赴くことを考えるのではなく、活路を見いだすために――
でももう、なにもかもが手遅れだ。
「リリィ!」
それまで戸惑ったようにやり取りを見守っていたリリィは、はっとなって地を蹴った。
空中で手の平くらいの大きさになってルルアの肩に飛び乗る。
「今まで、良くしてくれてありがとう」
告げると、ルルアは窓の外に身を投じた。
ルルアが風の精霊を喚ぶ声と、侍女たちの悲鳴とが重なり、たなびく風の中に掻き消える。
「ルルア!」
その中でもなぜかはっきりと、ザイツの呼ぶ声が聞こえた。
けれど急激に持ち上げられた彼女の視界の中で白亜の神殿も小さくなり、あっという間に森に呑まれてしまう。
ルルアは振り切るように視線を遙か遠くへ向けた。
もう振り向くことすらせずに風に身を任せたルルアの目の前には、ただ、薄紫の空と大地のみが広がっていた。
◇ ◆ ◇ ◆
――破壊の神の名を冠した魔物はとうとう、ライナレジアの一翼を崩した。
この時ルルアのもたらした情報は、あっという間に神殿中に、果ては人々の間にも広がって多くの者の心を砕いた。
けれどその時唯一、その非力さを蔑まれ、その存在を軽んじられてすらいた少女だけが立ち上がり、駆け出した。
ライナレジアとして世界を護るためか、兄の復讐のためか――そんなことは考えもせずに。
ただ、兄を失った苦しみの「衝動」に駆られ、彼女は走った。
それが、やがて世界を動かす大きな流れに繋がることも知らずに。