第一章 羽ばたく一翼-2
2
「遅れまして大変申し訳ありません!」
そう言って重い両開きの扉に身体を滑り込ませるようにして稽古場に入ったルルアを迎えたのは、突き刺すような無数の冷たい視線だった。
広い板張りの稽古場の床にはルルアと同じくらいの年頃の男女が二十人ほど座り込んでいて、その皆が皆、不満を隠しもせずにルルアの方を睨みあげてきたのだ。
「……遅れまして、大変申し訳ありません」
その場の空気に絶えきれず、同じ謝罪の言葉を繰り返しながらルルアは視線を落とした。祭礼服の裾をきゅっと握りしめる。
衣装が複雑で着づらかったとか重くて走れなかったとか言い訳は沢山あるが、調べものに熱中していた自分が悪いのだ。謝ることしかできない。
「……いくら兄御子様が旅立たれたとは言え、神殿の最高責任者がそれでは示しがつきませんよ、姫御子様」
真っ先に口を開いたのは、歌と舞の指導役の女官だった。
「むしろ、兄御子様がいらっしゃらないからこそ、貴方様にはしっかりして頂かないといけません」
「……申し訳ありませんでした」
「よろしい。では、始めましょうか」
そう言って、女官は手を叩いた。ルルアに冷たい視線を送っていた者達もそれを合図に立ち上がり、稽古場の中央に集まってくる。
ルルアは剃刀のような空気から逃れられたことにほっと息をついた。
幸い、今日は口うるさい神官達――かつての御子だった者達が着く職で、祭礼などの一切の采配を取り仕切る――も来ていないようだ。彼らがいたらこんなものではすまない。
「今日は正装での練習の初日です。動きにくい分細部まで気を遣ってください。では……姫御子様はとてもではないですが歌を歌える状態ではなさそうですので、舞手の稽古から始めましょう」
指示に従い、白亜の衣装と、漆黒の衣装を着た二つの集団が進み出、奏者達の音楽に合わせ、踊り始める。
ルルアは舞を担当するレジア達の群舞を眺めながら胸に手を置いた。
女官の言う通り乱れている息をなんとか整えようとする。
《復活祭》は四年に一度の大祭で、世界を救った《リズナ=アース》から、必ず行うよう言われたという重要な神事である。
その最終日には、仕上げとして御子の祈りの言葉と《再生歌》と呼ばれる歌がある。もちろん担当はルルアと、兄のルアルだ。
だが実際は御子の歌だけではない。それに合わせてレジア達の舞も奉じられ、また合唱がつく。
ここに今集まっている者達全てで《再生歌》を作り上げなければならないのだ。
しかもその儀式は感応能力を持つレジア達によって世界中に伝えられる。人々に神の存在を、ひいてはその意を汲んだ守人としての神殿の存在を印象づけるためだ。
(でも、こんな状態でそれができるのかしら……)
ルルアは胸に置いた手をきゅっと握りしめた。
(だってレジアの、ううん、この神殿の人達は皆、私のこと……)
「あ〜あ、御子っていうだけで、優遇されていいよなあ」
突然降ってきたトゲの含んだ言葉に、ルルアは肩を震わせた。同時に、いつの間にかまた下がってしまった視界に影が差す。
思考を打ち切り、のろのろと首を巡らせると、茶色の髪に、金に近い薄い鼈甲色の瞳をした少年が二人立っていた。
「……ギイク……――ザイツ」
双子のその少年達は背格好と色彩こそ同じだが、性格の違いのせいか顔立ちはあまり似ていない。
ただし、今纏う雰囲気は共通してどちらもルルアに対して友好的とは言い難いものだった。
「僕らだったら遅れて来たってだけで大目玉だよ」
続けて言うのは、どこか神経質そうな高めの声のギイクだ。
「さすがこの世界で一番偉いライナレジア様。羨ましいねえ」
ルルアには聞こえるように、けれど群舞の音楽に掻き消されて教官達には伝わらないように。
そんな音量で話す少年が煩わしくて、ルルアはなにも言わず、視線を元の位置に戻した。
「……お高くとまっちゃってさ」
それがギイクにはかちんと来たのだろう。声を裏返らせながら吐き捨てるように言う。
見かねたのか、隣の弟であるザイツが低い声で諫めた。けれどこの兄は感情的になるとなかなか収まらないところがある。
案の定ザイツの言葉では収まらず、キンキン声で続けた。
「どうせ、あんたの兄貴が死んだらお役目ごめんだっての」
その言葉に、それまで無視を貫こうとしていたルルアは、目を見開き、ギイクを見た。
「今、なんて言った?」
低く、唸るような声に、ザイツの方がぎくりとなる。兄の肩を押さえたが、肝心の本人が気づいていない。
「あんた、兄貴のおこぼれで御子になれたんだし、兄貴が《ルア=カレルアム》に殺されたら誰もあんたを御子だなんて認めないよ」
「ギイク!」
「なんだよザイツ、本当のことだろ。みんな言ってる」
「み、んな……?」
ルルアはぎり、と拳を握りしめた。
全身の血が沸騰しそうだった。
別に自分の評価なんてどうでもいい。兄に比べて出来の悪い妹なのも自覚しているし、おこぼれとか言われることにももう、慣れた。
許せないのは――
「皆ルアルが生きて戻らないって、そう思ってるってことなのね」
深海紫色の瞳が、剣呑な輝きを宿す。
そこで初めてギイクは失言に気づいたようだった。
けれど人一倍自尊心の髙い彼は謝るということはできない。
言いつくろうようにして、失言を重ねた。
「そ、そうさ。だから叔父上達もあんたを片づけようとマーナ王との結婚を持ち出してきたんだろ。そうに決まってる。温情だよ、温情!」
「ギイク!」
ザイツが肩を強く引いた。
「もういい加減にしろ!」
すごむような弟の声でようやく黙ることができたのか、それとも思わぬ力で引かれてしりもちをついたせいで勢いが削がれたのか。ようやくギイクは口を閉ざした。けれど――遅い。
「……温情、ね」
力無く呟いて、ルルアは周囲を見回した。
群舞には参加していない、合唱を担当している者達はこの一部始終を捉えていたようだった。
だがその眼差しはルルアに対して同情的どころか、変わらず冷ややかだった。
「他の皆様も、やっぱりそう思ってるってことですか……」
向けられる眼差しに浮かぶのは、はっきりとした嫌悪と侮蔑。
年若いからこその遠慮情けない感情がルルアにぶつけられていた。
「ふざけんじゃ、ないわよ……」
きつく両手を握りしめたルルアの声はけれどひどく弱々しかった。
心の深いところに、心ない言葉と冷たい視線が突き刺さっていた。