お人形さんと、わたし。
お人形さん、お人形さん。
決して、名前をつけないで。
決して、名前を呼ばないで。
決して、決して。
そうで、ないと。
+ + +
ひぐらしが鳴いている。
「花」
おばあちゃんの声に振り向くと、つられてその子も振り向いた。
赤い唇。赤い着物。
流れるような黒髪が映える白い肌の、女の子。
「ああ、お人形さんと遊んでいたのかい」
「うん、おままごとしてたの」
その言葉を聞いて、おばあちゃんは手を顎に当てる。
「大分……大きくなったねぇ…………」
夏休みだから、毎日会ってるはずなのに。
少し首を傾げたくなったけれど、笑って応えた。
「うん、花はもうすぐ一年生なんだよ!」
「……そうか、花も。もうそんなになるか」
もう、そんなに。
その言葉を何度か繰り返しながら、おばあちゃんは背を向けて歩き出した。
呼応するように、その後を着いていく。
「花」
背を向けたまま、おばあちゃんは問いかける。
「お人形さんを、呼んではいないね」
お人形さん。
名前をつけてはいけない。
名前を、呼んではいけない存在。
「うん」
一緒に遊んでも、ついてきても。
私からは、決して呼ばない。
「でも――――」
少し、迷いながら口を開く。
「最近、なんだか」
ざりざりざり、と。
言いかけた違和感は、後ろからついてきた草履の音に止められる。
私から、離れないような。
私を、離さないような。
「花」
言葉と共に、草履の音が止まる。
「ねぇ、花。花、遊びましょう」
ひぐらしの声すら、もう聞こえない。
絡みつくように。
歌うような彼女の声が、耳から私の中に滑り込んできた。
+ + +
背中を濡らして目が覚めた。
嫌悪感に体を起こせば、首筋にも汗が伝う。
「変な、夢……」
あんな人形、見たこともないのに。
震えを誤魔化すように引っ張り出したタオルで顔を拭けば、先ほど聞いたばかりの音が響いた。
ざり、ざり、ざり。
近寄ってくるようなその音は。
アパートの砂利を、誰かが踏む音だと分かっているはずなのに。
おばあちゃんの家からは遠く離れていて、子供でもないはずなのに。
ざり、ざり、ざり。
明日に控えた入社式も。
眠気を戻してくれるには、不十分だった。
+ + +
「ねぇ、花」
お人形さんは、長い髪を揺らして言う。
「花の好きなものは?」
それに、なんと答えただろう。
「花はいつ起きるの?」
「花はどの色が好き?」
「花の嫌いなものは?」
「花は何を食べるの?」
「花はどこにいるの?」
「花は」
「花」
「ねぇ」
「花」
お人形さんの問いかけは。
私の全てを舐め尽くすようで。
「し、知らないよっ!」
「ふぅん」
いい加減にしてほしくて。
言葉を絞り出して、背を向ける。
「花のことなのに、分からないの?」
草履が地面を擦る音がしばらく続いて。
止まる。
冷たい。
首を見れば、白魚のような指が、這わせられていて。
「私の方が、花みたいね」
名前もついていない、お人形さんが。
姿も形もあるはずなのに。
その言葉から、形作られていくようで。
「ねぇ、花」
耳元で響く声も。
撫でられる喉の違和感も。
少しずつ、少しずつ。
私の中へ、染みこんでいく。
「花のなりたいものは、なにかしら?」
彼女の呼ぶ名前は、私を指しているのか。
それとも。
+ + +
慣れない環境への疲れだろうか。
また、あの夢を見てしまった。
もうすぐゴールデンウィークだから……そこでゆっくり休めればいいけれど。
振り払うように飲み干したオレンジジュースは。
夢で、彼女へ答えたものと同じ味がした。
+ + +
「花」
「はい」
友達の声に振り向くと、私が答えるより先にお人形さんが返事をした。
「なんであなたが返事するの?」
「なんでだと思う?」
「真似しないで!」
「真似しないで、だって」
言いながら、からからと彼女は笑う。
言いようのない感情は、体の中をぐるぐると回っているようで。
「……っ! ねぇ、もう行こうっ」
友達の手を引いて、彼女から離れる。
「花ちゃん?」
「花は、私っ!」
呼びかけにそう応えて、手に込める力を強めて。
どうして私が、そんなことを言わないといけないのか。
後ろから聞こえる草履の音が徐々に大きくなって。
逃げるように、足を速めて。
「花は、わたし」
友達の空いていたもうひとつの手に、するりと彼女が手を滑らせて。
「あなたは花じゃないでしょうっ!?」
「じゃあ、なぁに?」
赤い唇が、艶めかしく開かれる。
「私はだぁれ?」
喉元を伝って、心臓まで落ちるようなその声に。
『名前を呼んでは、いけないよ』
知りもしない、つけてもいない。
口に出したはずのそれは、そのまま空気に溶けて、消えた。
+ + +
雨音がひどい。
だから、あんな夢を見たんだ。きっと、そう。
今日はたまたま、疲れているから。
こんな雨の日の、こんな時間に聞こえるこの音も。
響く草履が擦れるような音は。
雨と同じで、いつまでも止まなかった。
+ + +
「花」
目覚めると、お人形さんが覗き込んでいた。
思わず悲鳴をあげて飛び退く。
「どうしたの? 悪い夢でも見たの、花」
「わるい、ゆめって……」
それは、今この夢の、話で。
「花は、怖い夢嫌いだものね」
くすくすと笑う彼女の顔は、なぜだか見えない。
「花はししとうも嫌い」
「花は砂利の音が怖い」
「花は雨音で目覚める」
「ねぇ」
「花」
赤い唇が、
「花は、わた」
「もう、やめてよぉっ!」
紡ごうとした言葉は。
私に思い切り押されて、止められた。
「うふふ、うふ、あは」
それがとても楽しいことというように、彼女は舞い踊る。
「あはは、あは、あはははははははははははははっ!」
お人形さんの笑い声だけが、いつまでも耳に響いていた。
+ + +
「花」
いつからか早まっていた動悸に息を深く吸って、先ほどまでの嫌悪感とともに吐き出す。
「あ、えっと……何?」
「何はこっちのセリフよ……たまに実家に帰ってきたと思ったら、全然話聞いてないんだから」
一人でアパートにいるのも怖くなって……実家に来たはずなのに。
あの夢はずっと私を追いかけてきて。今も、また。
「お、お母さん。実は……」
今までの夢を伝えてみると、お母さんは眉を顰めて顎に手を当てた。
「そういえば……お人形さんといえば、アンタに聞こうと思ってたのよね。ほら、おばあちゃんが昔作ってくれた胎毛人形」
「たいもう、にんぎょう……?」
聞き慣れない言葉に、つい繰り返す。
「ほら、赤ちゃん筆とかってあるでしょ? 赤ちゃんの胎毛をとっておくの……それで、アンタは人形にしたのよ」
押入れから出てきた、小さな箱。
こちらの心の準備も無しに、それは開けられた。
「ずっと開けてなかったからねー。でも、可愛いでしょ?」
「ああ、うん……可愛い、かも」
夢に出てきたあのお人形さんとは随分と違ったその人形は。
記憶は全くないけれど、私の髪の毛らしいそれが髪の部分に飾られていた。
「かわ、いい……」
髪の長さだって、胎毛だから違って当たり前で。
お人形さんみたいに、あれほど大きくもないのに。
唇の赤さだけが、妙に気に掛かって。
「いらないんだったら、アンタの部屋のぬいぐるみと一緒に人形供養に出そうかと思って。ほら、この前バザーで売れなかったやつ」
「ああ……じゃあ、そうして」
気になる程度だったけれど、これで少しは安心できるだろう。
偶然が重なっただけ。
よくあることで。つい、怖いものを結びつけて考えてしまっただけだ。それだけ。
そうして、実家から帰っても当たり前のように夢は見なくなった。
+ + +
ざり、ざり、ざり。
ざり、ざり、
+ + +
ひぐらしが鳴いている。
今年の夏は、そこまで暑くない。
だから、震えが出るのも当たり前で。
怖気がするのも、おかしくなんてない。
ざり、ざり、ざり。
草履の擦れるような音は、砂利の音で。
首筋を這うのは汗で、あの細指じゃない。
「花」
名前なんかつけてない。
名前なんか呼んでない。
だって、その名前は、私の――――。
楽しげな笑い声が、私の耳から、中まで。
余すことのないように。
静かに染み込んで、入り込んでいく。
ざり、ざり、ざり。
草履の音が、すぐそばで止まる。
ひぐらしの声は、もう聞こえない。
お読みいただきありがとうございました。
今回のお話は自分の夢を元に書いてみました。
よく夢を見る方なのですが、たまにこうした怖い夢を見ることがあります。
夢の中の共通するルールとして
・自分の名前を決して教えてはいけない。
・現実世界でないと認識していくと、話している人の顔が溶けたり姿を保てなくなっていく等、世界が保てなくなっていく
というものがあって、今回のお人形さんのルールも夢の中に出てきたものをそのまま書いています。
自分の場合はこのお話と違って、途中でお人形さんを拒絶したら世界から追放される感じで一気に遠ざかって夢が覚めたのですが……あのまま受け入れていたりしたらどうなっていたのかな。
ちなみに、現実世界で実家から人形が出てきた流れも同じでした。
日本人形系ではありましたが、全然自分とは関係ないものでそのまま人形供養に出されたので、そのあたりはお話とは違ったところです。
ホラーはあまり書いていないのですが、「ばりばりばりばり」という短編も書いていますので、気に入っていただけた方はこちらもぜひ。
ほんのりでも涼しくなって頂ければ幸いです。
あとがきもお読みいただきありがとうございました!




