第7章 名前が独り歩きする
リアライズのオフィスは、
いつもと変わらない朝を迎えていた。
挨拶の声。
キーボードの音。
コーヒーの香り。
だが、涼平にはわかっていた。
空気が、昨日までと違う。
「……おはようございます」
声をかけると、
一瞬だけ、返事が遅れる。
「……あ、おはよう」
笑顔はある。
けれど、どこかよそよそしい。
(……来てるな)
誰かが何かを知っている。
正確じゃなくても、
断片的な情報が、もう出回っている。
◇◇◇
昼前。
給湯室の前を通りかかったとき、
ひそひそとした声が、耳に入った。
「……調査、あの人のIDから出てきたらしいよ」
「え、マジで?」
「じゃあ……」
涼平は、足を止めなかった。
聞こえなかったふりをして、
そのまま通り過ぎる。
(……まだ、決まったわけじゃない)
そう、わかっている。
だが――
噂は、事実よりも早く形を持つ。
◇◇◇
そのころ。
会議室では、
アークシステムズの3人が、
涼平と向かい合っていた。
「社内で、少し動きが出てます」 凪が、低い声で言う。
「……やっぱりか」 涼平は、苦笑した。
「俺の名前、出てる?」
「はっきりとは」
凪は言葉を選ぶ。
「でも、“怪しいIDがある”って話は、
もう独り歩きしてますね」
環は、涼平の表情をじっと見ていた。
強がっている。
でも――
ほんの少し、肩が強張っている。
柊が、静かに言った。
「涼平。
今は、何もしなくていい」
「……何もしない、か」
「余計な動きをすると、
向こうの思うつぼだ」
凪も頷く。
「今は、
“噂に反応しない”のが一番です」
涼平は、一度だけ目を閉じ、
ゆっくり息を吐いた。
「……わかってる」
それでも、
自分の名前が、
勝手に歪められていく感覚は、
思った以上に堪える。
◇◇◇
一方。
同じフロアの少し離れた席で、
紗唯は、落ち着かない様子で画面を見つめていた。
キーボードに置いた指が、止まる。
(……噂、出てる)
誰の名前かは、
はっきりとは聞こえない。
けれど――
「あの人」という言葉が、
何度も耳に入る。
(……大丈夫)
(ログは、ちゃんと残ってる)
(“あの人”の名前で……)
そう思おうとするほど、
胸の奥が、ざわつく。
カフェで目が合った、
あの女性の顔が、
ふと、浮かんだ。
穏やかな目。
逃げ場を塞ぐような視線。
(……見られてる)
理由はわからない。
でも、
どこかで、何かがズレ始めている。
◇◇◇
夕方。
涼平は、自分のデスクで、
いつもより静かに作業をしていた。
話しかけられることは、減った。
代わりに、
視線だけが増えた。
それでも――
背筋を伸ばし、
仕事を続ける。
(俺は、何もしてない)
その事実だけを、
胸の奥で繰り返す。
だが、
真実が追いつく前に、
噂は、確実に居場所を奪っていく。
誰も、まだ断定していない。
誰も、責任を取らない。
ただ――
名前だけが、
独り歩きを始めていた。




