第10章 焦りの痕
リアライズのオフィスは、
いつもと変わらない午後を迎えていた。
――表向きは。
だが、涼平の周囲だけ、
確実に空気が変わっていた。
「……あの人、最近ちょっと……」
言葉は、途中で切れる。
続きを言わなくても、意味は伝わる。
涼平は、気づかないふりをして仕事を続けていた。
だが、胸の奥に溜まる重さは、
日に日に増していく。
◇◇◇
その頃。
紗唯は、自分のデスクで、
スマートフォンを握りしめていた。
(……もう一度)
一度目は、スマホだった。
自宅で、誰にも見られず、慎重に。
だから、うまくいった。
(でも……)
社内で聞こえる噂。
涼平の名前。
探るような視線。
(このままじゃ……)
焦りが、判断を鈍らせる。
紗唯は、
スマートフォンを机に置き、
代わりに会社支給のノートPCを開いていた。
(少しだけ……確認するだけ)
そう自分に言い聞かせながら、
指をキーボードに置く。
共有PC。
いつも使っているもの。
――そこに、
「誰が」「どのPCで」「いつ作業したか」が
すべて記録されることを、
このときの紗唯は、深く考えていなかった。
(……急がなきゃ)
涼平の個人ID。
慣れた手順。
だが、
心は、明らかに乱れていた。
バックドアへのアクセス。
短い作業。
そして――
ログの修正。
(……あとで)
その“あとで”は、
結局、来なかった。
◇◇◇
同じ時間帯。
凪は、
新しく追加されたログを、
無言で見つめていた。
「……あ」
小さな声が、漏れる。
「柊先輩」
「どうした」
「……2度目、来てます」
画面には、
同じIDによる、
別の操作履歴。
「1度目と、違う」
凪は、即座に理解した。
「今回は……ログが、そのまま残ってる」
「修正、してないのか」
柊が低く言う。
「はい」
凪は頷いた。
「1度目は、痕跡を消してる。
でも、今回は――焦ってる」
さらに画面を切り替える。
「端末情報……一致しません」
凪は、確信に近い声で続けた。
「同じIDだけど、
使っているPCが違います」
画面に表示された情報。
PCシリアル番号。
社内管理番号。
使用者。
凪は、静かに言った。
「……江上紗唯」
柊は、ゆっくり息を吐いた。
「……やっぱり、な」
◇◇◇
その頃。
紗唯は、
化粧室の洗面台で、
水を出していた。
手が、震えている。
(……何やってるの、私)
鏡に映る自分の顔が、
ひどく青白く見えた。
深呼吸をしようとした、そのとき。
扉が開く。
「……あ」
入ってきたのは、
あの女性だった。
アークシステムズの――
環。
環は、にっこりと微笑んだ。
「お疲れさまです」
その穏やかな声に、
紗唯の心臓が跳ねる。
「……っ」
言葉が出ない。
会釈だけして、
慌てるように化粧室を出る。
その拍子に――
小さなポーチが、床に落ちた。
気づかないまま、
紗唯は立ち去ってしまう。
◇◇◇
会議室に戻った環は、
ポーチを手に、柊と凪を見る。
「今、化粧室で江上さんと会いました」
「……そうか」 柊が短く答える。
「これ、落とされていて」
環は、ポーチを差し出した。
「届けたほうがいいかなと思って」
凪は、少しだけ考え、
頷いた。
「……様子、見たいですね」
涼平が、
案内役として立ち上がる。
「俺が一緒に行くよ」
◇◇◇
廊下の先。
環は、
紗唯のもとへ歩み寄った。
「江上さん」
静かな声で呼び止める。
振り返った紗唯は、
一瞬、強く目を見開いた。
「先ほど、こちら落とされていました」
環は、丁寧にポーチを差し出した。
「……あ」
紗唯は、
両手で受け取ろうとして――
その手が、わずかに震えている。
環は、見逃さなかった。
「大丈夫ですか?」
やさしく、問いかける。
「どこか、体調がすぐれないように見えて……」
「い、いえ……」
紗唯は、慌てて首を振る。
「大丈夫です……あリがとうございました」
そのまま、
足早に立ち去っていく。
◇◇◇
少し離れた場所から、
柊と凪は、その様子を見ていた。
「……決まりだな」 柊が言う。
凪も、静かに頷いた。
「技術的にも
行動的にも」
環は、
立ち去る紗唯の背中を、
しばらく見つめていた。
(……追い詰められてる)
それは、
責める気持ちではなかった。
ただ、
逃げ場を失った人の気配を、
確かに感じていた。
真実は、
もう隠れきれないところまで、
姿を現していた。




