真夜中の怪現象と見えない剃刀
「……お嬢様。もう一度だけ、自分に確認させていただけますか」真夜中の学園。静まり返った北校舎の長い廊下で、ポエムは背負わされた二十キロの重圧――魔導周波数解析機『ハミングバード』試作三号のストラップに食い込む肩を震わせながら、消え入りそうな声を出した。「なんですの? ポエム。わたくし、今は空気中の微細な振動の『うねり』を感知するために、全神経を耳に集中させておりますのよ。あまり無駄口を叩かないでくださる?」「その全神経を研ぎ澄ましている最中に大変申し訳ないのですが。……なぜ、自分たちはこんな丑三つ時に、幽霊が出ると噂の廊下で壁に張り付いているのでしょうか。それも、お嬢様特製の『集音用猫耳カチューシャ』などという、公爵家の品位を粉々に粉砕するような装備を頭に乗せられて」「あら、似合っておりますわよ。そのカチューシャ、ただの飾りではなく、内部に魔導集音石を組み込んだ最新鋭の指向性マイクなんですの。貴方のその突き出た耳が、今は学園で最も鋭敏なセンサーになっているのですわ。光栄に思いなさいな」「自分、今なら実家の両親に顔向けできない自信があります」
キャサリンは、ポエムの泣き言などそよ風ほどにも感じていない様子で、手にした魔導懐中電灯を廊下の先へと向けた。学園に伝わる怪談『喉切り公』。かつて理不尽な罪で処刑された音楽教師の亡霊が、夜な夜な現れては、美しい声を持つ者の喉を、あるいはその象徴たるネクタイやリボンを、目に見えない剃刀で切り裂くという。昼間の礼拝堂で起きた「沈黙の聖歌隊」事件。それ以来、学園内はこの怪談の再来に怯え、日が暮れれば誰もが寮の自室に閉じこもっていた。
「いいですか、ポエム。この世に解明できない怪奇現象など存在しませんわ。あるのは、未知の物理現象か、あるいは悪意を持った何者かによる稚拙なトリックだけですの。……来ますわよ」キャサリンの声が、一段低くなった。その瞬間。廊下の空気が、ピリリと凍りついたような感覚。「ひっ……!」ポエムが短い悲鳴を上げた。風もないのに、廊下の奥から「ヒュン……」という、細く鋭い音が聞こえたのだ。それはまるで、空気がそれ自体を切り裂いているかのような、不気味な高音だった。
「お、お嬢様! 今、何か通りました! 冷たいものが、自分の首筋を――」「動かないで!」キャサリンの鋭い制止が飛ぶ。次の瞬間、ポエムの首元で、パチンと弾けるような音がした。「……え?」ポエムが呆然と視線を落とす。彼の首に端正に結ばれていたはずのネクタイが、まるで鋭利な刃物で一閃されたかのように、結び目のすぐ下から斜めに切り落とされ、ヒラヒラと床に舞い落ちた。切り口は見事なほどに滑らかで、熱さえ帯びているようだった。
「ぎ、ぎゃあああああ! 切れた! ネクタイが切れた! 次は喉だ、次は自分の喉がスパスパに、お刺身の盛り合わせみたいにされてしまうんです自分!」「うるさいですわよ、ポエム! 静かにしなさい! ……ハミングバードの波形を見せて!」キャサリンは、パニックに陥る従者の背中に回り込み、彼が背負った解析機のモニターを強引に覗き込んだ。緑色の波形が、狂ったように上下に振れている。「……やはり。可聴域を遥かに超えた超高周波のスパイク。ですが、これだけでは物理的な切断能力を持つほどのエネルギーには至りませんわ。……おかしいですわね。何かが、この空間そのものを変質させている……?」
キャサリンは懐中電灯を消した。代わりに彼女が取り出したのは、小さな小瓶に入った細かな銀色の粉末――魔導触媒を含んだ観測用の塵だ。「ポエム、息を止めていなさい」「えっ、あ、はいっ」キャサリンがその粉末を、ネクタイが切り裂かれた空間へと、優雅な手つきで撒いた。銀色の粉末が、暗闇の中でキラキラと舞う。普通であれば、粉末は重力に従って床に落ちるか、あるいは空気の流れに乗って拡散していくはずだ。しかし。
「……見えましたわ」キャサリンの瞳が、獲物を見つけた猛獣のように輝いた。宙に舞った銀色の粉末は、ある特定の場所でピタリと動きを止め、まるで透明な壁に阻まれたかのように、空中に幾何学的な模様を描き出していたのだ。それは、等間隔に並んだ「静止した層」。粉末が激しく振動している場所と、全く動かずに固まっている場所が、交互に縞模様を作っている。
「お嬢様……これ、は……?」恐怖を忘れ、ポエムが呆然と呟いた。「クラドニ図形の三次元版……いいえ、もっと凶悪な代物ですわ。ポエム、貴方のネクタイを切り裂いたのは、亡霊の剃刀でも、目に見えない暗殺者の刃でもありません。……これは、『音』ですわよ」「音? 音が、布を切ったというのですか?」「ええ。特定の周波数の音が、この廊下の壁と壁の間で完璧に反射し合い、互いを強め合っている……。波と波がぶつかり合い、見かけ上、その場に留まっているように見える現象。――『定在波』ですわ!」
キャサリンは、銀色の粉末が激しく震えている「腹」の部分を指差した。「この特定のポイントだけ、空気の分子が超高速で振動し、凄まじい摩擦熱と圧力の変化を生み出していますの。そこに貴方のネクタイが入り込んだ。……結果は明白。高出力の超音波カッターの中に、自分から首を突っ込んだようなものですわ」「……そんな、バカな。ここはただの廊下ですよ? 音を増幅する装置なんてどこにも……」「いいえ、ありますわ。ポエム、足元を御覧なさい」
キャサリンが床を指し示す。そこには、学園の歴史を感じさせる古びた、しかし精巧な装飾が施された真鍮製の通気口があった。「そして、天井のあの彫刻。……あの位置関係、あの角度。この廊下そのものが、特定の周波数を増幅し、定在波を発生させるための『共鳴管』として設計されていますのよ。誰かが、どこかで音源を鳴らした。それがこの空間で増幅され、見えない刃となって貴方を襲った……」
キャサリンは、切り落とされたネクタイの端を拾い上げると、それを愛おしそうに指でなぞった。
「素晴らしい……。音を単なる破壊の道具ではなく、空間を制御する精密な外科手術用のメスとして利用するとは。この犯人、性格は歪んでおりますが、音響工学に関しては、わたくしと一晩中語り合えそうなほどの変態ですわね!」「お嬢様、それは自分にとって全くフォローになっていません」「ふふ、ふふふふ……。面白くなってきましたわ。幽霊の仕業にしては、あまりにも論理的。そして、あまりにも『音』への理解が深すぎる。……ですが、残念でしたわね」
キャサリンは立ち上がり、暗闇の先を見据えた。「わたくしの前で『音』を武器にするとは、釈迦に説法、あるいは重低音の令嬢にサブウーファーを自慢するようなものですわ。この程度の干渉、わたくしの計算で全て暴いて差し上げます!」彼女の宣言とともに、ハミングバードのモニターが、より一層激しい光を放ち始めた。目に見えない音の檻。その中心で、キャサリン・フォン・グランバッハは、不敵な笑みを浮かべていた。




