表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/19

聖歌隊長リリアンの証言

学園の保健室は、午後の柔らかな陽光が差し込み、不気味なほど静まり返っていた。本来であれば、ここには擦り傷を作った生徒や、恋の病を拗らせた令嬢たちが、保健医の老婆に泣きつく賑やかさがあるはずなのだが。今はただ、リネンから漂う仄かな消毒薬の匂いと、時を刻む古時計の音だけが、不自然なほど際立っている。


「……失礼いたしますわ」


わたくし、キャサリン・フォン・グランバッハは、扇で口元を隠しながら、優雅に、かつ重厚な足取りで入室した。背後には、わたくしの私物である重さ二十キロはあろうかという「魔導周波数解析機・試作三号:ハミングバード」を背負わされ、今にも膝が砕けそうなポエムを従えている。


「お、お嬢様……もう少し、こう、病人への配慮というものを……自分、この機械の振動で、さっきから奥歯の詰め物が浮いてる気がするんですが」


「何を言っていますの、ポエム。音の真理を探究する者に、安息などという言葉はありませんわ。それより、あちらですわね」


部屋の奥、真っ白なカーテンで仕切られた一角に、彼女はいた。聖歌隊長、リリアン。学園一の美声と謳われ、その歌声は「天界の銀鈴」とまで称される少女だ。しかし今、彼女の喉からは、一滴の音も溢れ出すことはない。


リリアンはわたくしたちに気づくと、少し驚いたように目を見開き、それから悲しげに微笑んで、傍らにあった小さな黒板を手に取った。


『キャサリン様、お見舞いありがとうございます。声が出せず、このような形での応対をお許しください』


チョークが細かく震え、黒板を擦る音が、静かな部屋にいやに高く響く。わたくしはその音の「周波数」に一瞬眉をひそめたが、すぐに慈愛に満ちた(と自分では思っている)表情を作った。


「構いませんわ、リリアン。わたくしがここへ来たのは、単なるお見舞いではありません。貴方の声を奪った『沈黙』の正体を暴き、ついでにわたくしの重低音理論の正しさを証明するためですわ」


「……お嬢様、後半が本音になってますよ。リリアン様、気にしないでください。この方は単なる音響マニア……いえ、音の変態なだけですから」


ポエムの無礼な注釈を無視し、わたくしはリリアンの目の前に椅子を引き寄せ、ドカリと腰を下ろした。


「リリアン、単刀直入に伺いますわ。あの時、礼拝堂で歌い出す直前……貴方の『耳』は何を感じましたの? どんな些細な違和感でも構いません。例えば、内臓が裏返るような衝撃とか、眼球が共鳴して視界が歪むような快感とか!」


「そんな物騒なことあるわけないでしょう」とポエムが溜息をつく。リリアンは少し考え込むように視線を落とした後、再びチョークを動かした。


『痛みはありませんでした。ただ……』


彼女の手が止まる。思い出すのも忌まわしいといった様子で、彼女は自分の耳元を指先でなぞった。


『耳の奥が、むず痒くなるような感覚があったのです。まるで、見えない虫が這いずり回っているような。そして、地底の底から響いてくるような、とても低い、低い唸りを感じました』


わたくしの背筋に、電流が走った。「低い、唸り」……ですって?


「詳しく、もっと詳しく教えてくださいまし! その唸りは、貴方の横隔膜を震わせましたの? それとも、頭蓋骨の底部を直接叩くような、鈍い律動リズムでしたの!?」


わたくしが身を乗り出すと、リリアンは少し怯えながらも、必死に言葉を紡いでいく。


『音というよりは、震えでした。とても低くて、重苦しくて……。それを感じた瞬間、喉の奥がキュッと締まるような感覚に陥り、いざ声を出そうとした時には、もう、何も出なくなっていたのです』


リリアンの証言。それは、わたくしにとって決定的な「証拠」となった。わたくしは立ち上がり、背後のポエムを振り返った。


「ポエム! ハミングバードを起動なさい! 設定は二十ヘルツ以下、超低周波帯域インフラソニックのサンプリング・ログを表示して!」


「ええっ、今ここでですか!? リリアン様がびっくりしますよ! ……はぁ、わかりましたよ、やればいいんでしょ、やれば」


ポエムが不承不承、機械のレバーを回す。ズゥゥゥン……という、耳には聞こえないが、床を伝って足の裏を痺れさせるような重低音が保健室に満ちた。わたくしはリリアンの書き置きと、機械が弾き出す波形データを交互に見つめる。


「耳の奥の痒み。そして、低い唸り……。リリアン、貴方が感じたのは、おそらく『音』ではありませんわ。それは、一定の音圧を持った『空気の振動』による、共鳴現象です!」


リリアンは不思議そうに小首を傾げた。ポエムが代弁するように口を挟む。


「お嬢様、わかりやすく説明してください。自分のような凡人にも、そして声を失ってショックを受けているリリアン様にもわかるように」


「仕方がありませんわね。……いいですか、音とは空気の振動です。そして、人間の耳に聞こえないほど低い振動――すなわち『超低周波』は、時として人体に奇妙な影響を及ぼします。特定の周波数は、人間の眼球を震わせて幻覚を見せたり、あるいは内臓を揺らして吐き気を催させたりする……。そして、喉の粘膜や声帯周辺の筋肉に対して、一時的な麻痺や収縮を引き起こす周波数も、理論上は存在しますのよ!」


わたくしの言葉に、リリアンの表情が凍りついた。彼女は震える手で黒板に書いた。


『では、私の声は……魔法ではなく、その「振動」のせいで?』


「ええ、そうですわ。犯人は、この学園の礼拝堂という巨大な空間を利用し、貴方たちの喉を狙い撃ちにする『見えない音の弾丸』を放ったのです。……ですが、おかしいですわね。わたくしの計算では、これほどの現象を引き起こすには、相当な出力の音源が必要なはず……」


わたくしは顎に手を当て、思考の海に潜る。あの礼拝堂の装飾柱。天使のラッパ。そして、リリアンの証言。すべての線が、一つの点へと収束していく。


犯人は、わたくしの「デス・カリバー」のような巨大な装置を使わずに、どうやってその超低周波を生み出したのか?いや、逆だ。巨大な装置がないからこそ、あの「空間そのもの」を楽器に変えたのだとしたら?


「……ふふ。ふふふふ……」


「お嬢様、笑い方が悪役令嬢を通り越して、ただの不審者になってますよ」


ポエムのツッコミも、今のわたくしの耳には心地よいBGMにしか聞こえない。わたくしは、窓の外に見える礼拝堂の尖塔を睨みつけた。そこには、静寂を愛し、音を憎む、偏執的な誰かの影が潜んでいる。


だが、残念でしたわね。音の深淵、重低音の恐怖を知り尽くしているのは、このわたくし、キャサリン・フォン・グランバッハですわ。


「ポエム、準備をなさい。三日後の解決期限を待つ必要はありませんわ。……超低周波。まさか、わたくしの愛する低音域を、このような卑劣な犯罪に利用する不届き者がいようとは。その傲慢、わたくしの重低音で粉砕して差し上げなくてはなりませんわね」


わたくしは扇をバサリと閉じると、口角を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。リリアンが呆然と見守る中、わたくしの瞳には、目に見えない「音の壁」の正体が、はっきりと映し出されていた。


「見つけましたわ。犯人が仕掛けた、この『沈黙』という名の旋律の、致命的な欠陥を!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ