沈黙の聖歌隊と喉切り公の伝説
聖マリアンヌ魔法学園の礼拝堂。そこは、歴史と伝統という名の煤がこびりついた、実に「格式高い」場所でございます。高くそびえるヴォールト天井、精緻な彫刻が施された円柱、そして信者たちの寄進によって磨き上げられた大理石の床。普通の人々が見れば「荘厳」の一言で片付けるのでしょうが、わたくし、キャサリン・フォン・グランバッハに言わせれば、ここはただの「巨大な共鳴箱」に過ぎません。
「……ポエム。この空間の残響時間、およそ三・五秒といったところかしら。中音域の反射が強すぎて、低域の輪郭がぼやけてしまいますわ。実に嘆かわしい、音響設計の敗北ですわね」
わたくしは、扇子で口元を隠しながら、隣に立つ従者に囁きました。先日の「デス・カリバー」最大出力実験により、我が公爵邸の屋根が少々浮き上がり、ついでに第一王子からの婚約破棄通告書が物理的な衝撃波で粉砕されるという「些細なアクシデント」がありましたが、わたくしの探求心は微塵も揺らいでおりません。
「お嬢様、声が大きいです。今は始業式の最中、しかも学園が誇る『聖歌隊』による奉納歌の直前ですよ。それから、邸宅の修繕費の見積もりを見てからというもの、自分は低音を聞くだけで胃壁が共鳴して痛む体質になりましてね。できれば音響学の講義は、せめて昼食の後にしていただけませんか」
ポエムは、いつものように無表情のまま、しかしどこか遠い目をして答えました。彼は今、わたくしの実験による「後遺症」を防ぐための特製耳栓をポケットに忍ばせています。主人の奇行に対する危機管理能力だけは、日に日に向上しているようですわね。
さて、式典は佳境を迎えました。壇上には、真っ白な法衣に身を包んだ二十名の聖歌隊が整列しています。彼らの歌声は「天使の囁き」と称され、その清らかさは聴く者の魂を浄化するとまで言われています。わたくしとしては、魂を浄化するよりも、鼓膜を物理的に震わせる重低音の方がよほど救いがあると思うのですが。
指揮者が、ゆっくりとタクトを振り上げました。聖歌隊のメンバーが、一斉に息を吸い込みます。彼らの喉が、美しい旋律を紡ぎ出すために、完璧な緊張を持って震えようとした、その瞬間。
「…………」
無音。それは、単なる静寂ではありませんでした。まるで、その空間から「音」という概念だけが、鋭利な刃物でスパンと切り取られたような、不自然で、暴力的な空白。
指揮者のタクトは空を切り、聖歌隊の少年少女たちは口を大きく開けたまま、固まっています。彼らの喉仏は確かに動いている。肺からは空気が送り出されている。しかし、そこから漏れ出るはずの「音」が、どこにも存在しないのです。
「……? どうしたんだ?」「マイクの故障か? いや、生歌のはずだろ」
参列している生徒たちの間に、さざ波のような困惑が広がります。壇上の聖歌隊は、顔を見合わせ、さらに必死に声を絞り出そうとしました。一人の少女が、自分の喉を掻きむしるようにして、必死に「あ、あ」と形を作ります。しかし、彼女の口から零れ落ちたのは、カサカサという乾いた吐息の音だけ。
「……ポエム。見なさい。あの現象」
わたくしの目は、その異様な光景に釘付けになりました。ただの失声症ではありません。壇上の四隅に置かれた、聖水を湛えた水槽。その水面に、奇妙な幾何学模様が浮かび上がっているではありませんか。音は聞こえない。なのに、物理的な「振動」だけが、あそこで踊っている。
「お嬢様、野次馬根性はほどほどに……。いえ、これは確かに、少しばかり気味が悪いですね。彼ら、本当に声が出ていない」
ポエムが眉をひそめたその時、聖歌隊の一人が、恐怖に耐えかねたようにガタガタと震えだし、その場に崩れ落ちました。それを合図にしたかのように、パニックが連鎖します。喉を押さえ、涙を流しながら、音の出ない悲鳴を上げ続ける聖歌隊。その光景は、音がないからこそ、より一層おぞましい無声映画のようでした。
「ひっ……! 呪いだ! 呪いが出たんだ!」
後方の席から、一人の男子生徒が叫び声を上げました。その声は、静まり返った礼拝堂に、不吉な亀裂を入れるように響き渡ります。
「『喉切り公』だ! あの伝説は本当だったんだ! 学園を呪って死んだ、あの公爵の亡霊が、聖歌隊の声を切り取ったんだよ!」
「喉切り公」……。学園に古くから伝わる、使い古された怪談ですわね。かつて学園の音楽教師だった公爵が、自分の愛した歌声を永遠に保存するために、生徒たちの喉を次々と切り裂いたという、悪趣味極まりないお話。
「呪い……? 嫌だ、私の声も奪われるの!?」「出口だ! 早くここから出ろ!」
一人が走り出すと、群衆心理というものは恐ろしい勢いで加速します。椅子をなぎ倒し、我先にと出口へ向かう生徒たち。「神聖な礼拝堂」は、一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝へと変貌しました。壇上では、聖歌隊たちが互いの喉を触り合い、音のない絶望に打ちひしがれています。
「……ポエム、聞こえましたか? 『喉を切り裂く』だなんて。なんて非科学的で、かつ魅力的なフレーズかしら」
わたくしは、混乱の渦中で一人、優雅に立ち上がりました。周囲の人間が恐怖に顔を歪める中、わたくしの心は、この「沈黙」が作り出す物理的な歪みへの好奇心で満たされていました。
「お嬢様、その目はマズい。非常にマズい時の目です。自分は知っています。これから貴女が、この騒動をさらに増幅させるような、物理学的な暴挙に出ることを」
「失礼な。わたくしはただ、真実を究明したいだけですわ。……見てごらんなさい、あの窓際。コウモリが数匹、気絶して落ちていますわね。彼らの超音波探知能力を狂わせる何かが、この空間には満ちている」
わたくしは、パニックに陥る生徒たちをかき分け、あえて壇上へと歩みを進めました。恐怖に怯える一般生徒たちは、わたくしの姿を見て「悪役令嬢が呪いを呼び込んだんだ!」などと、根も葉もない、しかし彼らにとっては都合の良い誹謗を投げつけてきます。
「どきなさい、低周波の理解も及ばない愚民共。わたくしは今、この『沈黙の層』の厚さを測定したいのですわ」
「お嬢様、暴言の出力が最大です! 謝罪してください、自分があとで謝る羽目になるんですから!」
ポエムの嘆きを背中で受け流しながら、わたくしは壇上に辿り着きました。そこには、泣き崩れる聖歌隊の少年が一人。彼はわたくしのドレスの裾を掴み、必死に口を動かしました。(助けて、声が、声が消えたんだ)音にならないその訴え。
わたくしは、彼の喉元にそっと手を触れました。指先に伝わってくるのは、微細な、しかし強烈な「振動」。まるで、見えないヤスリで喉の粘膜を削り取っているかのような、高密度のエネルギー。
「……なるほど。これは、魂の呪いなどではありませんわね」
わたくしの唇が、歓喜に歪みました。この現象、この「音のない暴力」。それは、わたくしが求めてやまない、究極の重低音の「裏側」にある世界。
「ポエム、準備なさい。ここには、わたくしの『デス・カリバー』でも到達し得なかった、未知の周波数が潜んでいますわ」
「嫌な予感しかしない。自分の全細胞が、今すぐここから逃げろと警報を鳴らしています」
礼拝堂の外では、いまだに「喉切り公の呪い」という言葉が、実体を持った恐怖となって学園中を駆け巡っていました。誰もが耳を塞ぎ、見えない亡霊に怯える中、わたくしだけは、その「沈黙」という名の旋律を、全身で味わい尽くそうとしていたのです。




