重低音の令嬢、公爵邸の地下で咆哮する
「いいですか、ポエム。音というのは、ただ耳で聞くものではありません。それは『暴力』であり、『慈愛』であり、そして何より『物理』なのですわ」
公爵邸の地下、かつては最高級のワインが眠っていたはずの貯蔵庫は、今や異様な光景へと変貌を遂げていた。湿り気を帯びた石壁には、のたうつ蛇のような太い魔導ケーブルが這い回り、中央には黒光りする巨大な木製の筐体が鎮座している。その姿は家具というよりは、何か邪悪な儀式に使う祭壇か、あるいは未確認飛行物体の残骸のようにも見えた。
「お言葉ですがお嬢様。自分には、それがただの『近所迷惑の塊』にしか見えないのですが」
従者のポエムは、無表情な顔で答えた。その手には、およそ公爵家の使用人には似つかわしくない、巨大な絶縁防護用の革手袋がはめられている。彼の視線の先では、主であるキャサリン・フォン・グランバッハが、ドレスの裾を大胆に捲り上げ、魔石の回路をピンセットで調整していた。
「何を仰るの。見てごらんなさい、この美しいバッフル板を。前世……いえ、わたくしの脳裏に焼き付いた理想の設計図によれば、この容積こそが、空気を、そして魂を震わせる最低音域を実現するための黄金比なのですわ」
キャサリンは、うっとりとした表情で巨大な箱——自称『魔導サブウーファー・試作壱号:デス・カリバー』を撫でた。彼女は、この世界の乙女ゲーム『薔薇と魔法のラプソディ』の悪役令嬢として転生した身だ。本来ならば、今頃は第一王子マルクスとの婚約破棄に怯え、ヒロインをいじめる算段でも立てているはずだった。だが、今の彼女にとって、王子との愛など「可聴域外のノイズ」にも等しい。彼女の魂を焦がすのは、前世で愛してやまなかった、あの臓物を揺さぶる重低音の再構築だけだった。
「お嬢様、先ほどから王子の使いの方が扉を叩いております。婚約破棄の通告書をお持ちだそうですが」「あぁ、適当にその辺の隙間にでも差し込んでおいてちょうだい。それよりポエム、そこの『魔力増幅回路』の接続を確認して。インピーダンスが整合していないと、わたくしの鼓動が止まる前に回路が焼き切れてしまいますわ」「……自分、王子の使いを『隙間』扱いするのは、大問題に発展する気がするのですが。あと、自分の心臓も止まりそうなのですが」
ポエムは深く、深いため息をついた。主人の奇行は今に始まったことではない。三日前には「ドラムのキックには鋭いアタックが必要」だと言い出し、厨房の最高級の鍋をすべて打楽器のパーツに改造してしまった。だが、ポエムの忠誠心は、その呆れを僅かに上回っていた。彼は言われた通り、魔力供給用のクリスタルをソケットに差し込む。
「準備はいいかしら? ターゲット周波数は30ヘルツ。人間の耳にはほとんど聞こえない、けれど、世界を定義し直す音ですわ」
キャサリンの目が、狂気にも似た情熱で爛々と輝く。彼女は装置の横に設置された、巨大なレバーを握った。
「出力、最大!」
ガコン、という重々しい金属音が地下室に響いた。その瞬間。静寂が、物質的な重みを持って変質した。
「————ッ!!」
ポエムは、自分の肺の中の空気が一気に押し出されるような感覚に襲われた。音はない。いや、音として認識するにはあまりに低すぎる振動。ズズズ、という地鳴りのような響きが、足の裏から背骨を伝い、頭蓋骨を直接揺さぶる。棚に並んでいたヴィンテージワインの瓶が、カタカタと不気味なダンスを踊り始めた。壁の埃が雪のように舞い落ち、地下室の空気が目に見えるほどの圧力差で歪んでいく。
「これですわ……! この、内臓を直接握りつぶされるような快感! 脳漿がシェイクされるようなこの響きこそが、わたくしが求めていた音!」
キャサリンは、振動に髪を振り乱しながら叫んだ。邸宅全体が、まるで巨大な生き物の胎内にいるかのように、規則正しく、そして暴力的に震えている。地上では、今まさに「婚約破棄」を告げようと意気揚々と乗り込んできた王子の使いが、突然の激震に腰を抜かし、庭の噴水に突っ込んでいた。領民たちは「ついに古の邪神が目覚めた」と教会へ走り、公爵邸の執事たちはシャンデリアが落下しないよう必死に紐を掴んでいる。
だが、地下の主は止まらない。
「もっと……もっと低く! 空気を、重力そのものを揺らしなさい!」
キャサリンは狂喜の表情で、さらに魔力出力を上げるダイヤルを回した。ドォォォォォン……。もはや音という概念を超越した「振動の壁」が、地下室から溢れ出し、公爵邸の土台を、そして周囲の森の木々をも共鳴させ始める。ポエムは、震える手で耳を塞ぎながら、ガタガタと鳴る奥歯を必死に食いしばっていた。
「お嬢様……! これ、邸宅が崩壊します! 物理的に、文字通りに!」「構いませんわ! 瓦礫の山の上で鳴り響く重低音……それもまた、一興ですわ!」
激しい振動の中、キャサリンは高らかに笑い声を上げた。その笑い声さえも、巨大なサブウーファーが吐き出す重低音にかき消され、ただの視覚的な記号へと変わっていく。公爵令嬢の咆哮は、物理的な圧力となって、夜の静寂を粉々に粉砕していった。




