黒幕の刺客、音波の罠
「お待たせいたしましたわ、ポエム。この図面はわたくしが責任を持って『重低音保護区』へ収蔵いたします。さあ、戻りましょう。この部屋の湿気は、わたくしの繊細な鼓膜に悪影響を及ぼしますもの」
「重低音保護区って、単にお嬢様の部屋のクローゼットのことですよね……。っていうか、早く戻りましょう。この部屋、さっきから妙な気配がして、自分、背筋がゾワゾワするんです」
ポエムは、二十キロの解析機『ハミングバード』を背負い直し、恨めしそうに湿った天井を見上げた。二人が学園長室を出て学園の出口へと向かっていた、その時だった。
――キィィィィィィィィィィィィィィィィィン!!
鼓膜を直接、極細の針で突き刺されたような、殺人的な高周波が空間を切り裂いた。
「ぐわぁぁぁぁっ!? な、なんですか、今の! 耳が、耳があぁぁ!」
ポエムが悲鳴を上げ、その場に膝を突く。それは音というよりは、物理的な暴力だった。空気が硬いヤスリとなって脳漿を削り取っていくような、不快極まる超高域の咆哮。ポエムの視界は激しく回転し、平衡感覚を司る三半規管が「もうおしまいだ」と白旗を振っている。彼は吐き気に襲われ、石床を這いずり回った。
「おやおや、無作法な音色ですわね。倍音成分が欠落した、純粋な悪意だけの正弦波……。音楽的素養が欠片も感じられませんわ」
だが、隣に立つキャサリンは、眉一つ動かしていなかった。彼女は優雅な手つきで、腰のポーチから「それ」を取り出した。鈍い銀色に輝く、重厚な金属製のヘッドホン。イヤーパッドには最高級の魔導羊の皮が張られ、側面には『CATHERINE-01: SILENT KNIGHT』という文字が刻まれている。
「ポエム、しっかりなさい。これは『指向性高周波魔導発振器』による攻撃ですわ。音波をレーザーのように収束させ、対象の平衡感覚を破壊する……。実に古典的、かつ趣味の悪い嫌がらせですことよ」
キャサリンは淡々とヘッドホンを装着した。カチリ、とスイッチを入れた瞬間、彼女の周囲の空気が一変した。ヘッドホンの内蔵マイクが外部の殺人的な音波を検知し、瞬時に「逆位相」の音波を生成。物理現象を物理現象で相殺する――これぞ前世の叡智、アクティブ・ノイズキャンセリングの魔導応用である。
「さて、この『静寂の檻』を破ってまで、わたくしたちに面会を求めているのは、どこのどなたかしら?」
キャサリンは、音の壁が物理的な圧力となって押し寄せる通路を、事もなげに歩き出した。その先、暗がりの角から、一人の人影が音もなく滑り出してきた。夜の闇をそのまま切り取って縫い合わせたような、漆黒の装束。顔は深いフードに覆われ、その手には不気味な青白い光を放つ、音叉型の魔導具が握られている。
「……驚いたな。私の『福音』を浴びて、正気を保っている人間がいるとは」
黒装束の男の声は、低く、冷徹だった。感情の起伏が削ぎ落とされたその口調は、まるで精密機械が喋っているかのようだ。
「福音? 笑わせないでくださいまし。そんなスカスカの高域、わたくしに言わせれば、壊れた蓄音機のノイズ以下ですわ。耳の奥が痒くなるだけでしてよ?」
「強がりを。そのヘッドホン……なるほど、魔力による障壁か。だが、出力を上げればどうかな?」
男が音叉を振る。キィィィィン、という音がさらに鋭さを増し、空気が目に見えるほどの陽炎となって揺らめいた。通路の壁の石材が、高周波の振動に耐えきれず、パキパキと細かい亀裂を刻み始める。背後でうずくまっていたポエムは、もはや「あばばばば」と意味不明な呻き声を漏らすことしかできない。
「無駄ですわ。音の原理を理解せぬ者に、わたくしを止めることはできません」
キャサリンは歩みを止めない。一歩、また一歩と、死の旋律を奏でる男へと距離を詰めていく。彼女の脳内では、ハミングバードから転送される波形データがリアルタイムで解析されていた。
「周波数、22,000ヘルツ。音圧レベル、140デシベル。……ふむ、確かに一般人なら脳震盪を起こすレベルですわね。ですが、その波形、周期性が単純すぎますわ。わたくしの『サイレント・ナイト』の演算能力を侮らないことね」
「何だと……!?」
黒装束の男の動揺が、その指先に現れた。音叉の振動がわずかに乱れる。キャサリンはその瞬間を見逃さなかった。彼女は懐から、もう一つのデバイスを取り出した。それは小さな、しかし密度の高い魔石を埋め込んだ「同調ブースター」である。
「音には音を。暴力には、より洗練された『物理』を。……ポエム、耳を塞いでいなさい。いえ、もう塞いでいましたわね」
キャサリンがデバイスのトリガーを引いた。「位相反転、出力最大!」
ドォォォォォォン……!
音ではない。それは「衝撃」だった。キャサリンのヘッドホンから、男の発する高周波を完全に打ち消し、さらにその発生源へとエネルギーを跳ね返す「カウンター・ウェーブ」が放たれたのだ。空中で高周波と逆位相の波が衝突し、凄まじい衝撃波が発生する。
「なっ……魔導具が、共鳴して……!?」
男の持つ音叉が、激しく火花を散らした。キャサリンが放ったのは、単なる打ち消し音ではない。男の魔導具の「固有振動数」を瞬時に割り出し、それを増幅して送り返す、破壊的な共鳴現象である。
パリンッ!
乾いた音と共に、男の手の中で音叉が粉々に砕け散った。それと同時に、辺りを支配していた不快な高音が霧散し、地下道に重苦しい沈黙が戻る。
「カハッ……!」
男は衝撃で壁に叩きつけられ、荒い息をついた。砕けた音叉の破片が、床に虚しく散らばっている。
「物理法則は嘘をつきませんわ。わたくしの愛する重低音には遠く及びませんが、エネルギーの保存則くらいは覚えておくことですわね」
キャサリンは優雅にヘッドホンを首にかけ、倒れ伏した男を見下ろした。その瞳には、勝利の喜びよりも、質の低い音を聞かされたことへの純粋な不快感が宿っている。
「さあ、お吐きなさい。この学園を巨大なシンセサイザーに改造しようなどという、悪趣味な計画の首謀者は誰ですの? わたくしの安眠(重低音リスニング)を妨げる不届き者の名前を、その貧弱な声帯で奏でてごらんなさい」
キャサリンの影が、魔導灯の光に引かれて長く伸び、壁に追い詰められた黒装束を飲み込んでいく。ポエムは、ようやく耳から手を離し、ふらふらと立ち上がりながら呟いた。
「お嬢様……。今の、かっこいいっていうより、ただの『音響ヤクザ』ですよ……」
だが、そのツッコミも、今のキャサリンの耳には届かない。彼女の関心はすでに、男が隠し持っているであろう「次なる音源」へと向けられていた。




