83.歌が裁く断たれた手
その手は、届かなかった。
祈りを捧げる手でも、剣を握る手でもない――
ただ誰かに触れたかった、ひとつの“問い”を抱いた手が、歴史の闇に沈んでいった。
セリアの意識は、霧のような夢の中をさまよっていた。
重力も時間も存在しない空間。そこにはただ、“音”だけがあった。
――届かない。
――それでも、伝えたい。
その響きに誘われるように、セリアは歩き出した。
それは現実ではない。けれど、ただの幻でもなかった。
(これ……前にも……)
胸の奥が疼いた。
この場所は、前世――音羽 静として生きていた時代の“音響共鳴実験”を思わせる風景だった。
だが、そこにあるのはデータではない。記録でもない。感情と、記憶の断片。
実験室のような石造りの空間。床は反響制御材に似た素材で覆われ、
壁には音の波形を記録する“石の記録面”が並んでいる。
その中央で、白衣を着た女性が何かを書き留めていた。
研究者のようであり、どこか祈るような手つきでもある。
――それは、音羽 静。
セリアの前世の姿。
彼女は、音を記録する柱の前で、最後の調整をしていた。
もはや世界に伝えるべき相手はいないと知りながら、それでも歌を残そうとしていた。
「ねぇ……私たちは、誰のために歌っていたんだろう」
返事はない。
代わりに、石の記録柱が青白く点滅し、静かに“文字”を浮かび上がらせる。
《記録系統断絶。制御装置非応答。同期機能凍結中》
《最終信号:願いを、誰かに。》
まるで機械の報告にも似た響き。だがそれは、どこか哀しげで、祈りの残響のようだった。
静は、そっと手をかざす。
「私は、アリアなんかになりたくなかった。
でも、誰かに届いてほしかった。
自分の意志で歌を選べる人が、この先の時代に、生まれてくれるようにって――」
その言葉が、セリアの胸に突き刺さる。
(それが、私……?)
視界が揺れた。
音と記録が砕け、崩れ、白い光がすべてを包み込む。
次の瞬間、景色が変わる。
そこはもう誰もいない、音の墓場のような場所。
ただ一つ、記録石の中心に残された“旋律の欠片”が、静かに震えていた。
それは、静が最後に刻んだ“調律の歌”。
誰にも向けられなかった、けれど、確かに「未来」へ託された音。
セリアは、手を伸ばした。
(歌は、裁くものじゃない。
でも、問いかけることはできる。選び、響かせることはできる)
その手が光に触れたとき――
現実へと引き戻される。
セリアは、神殿の封印区画で再び目を覚ました。
相変わらず手足は拘束され、喉元には封音帯。
けれどその瞳には、はっきりとした意志が灯っていた。
「――感じた」
かすれた、震える声。
魔力を抑えられているはずの喉から、確かに“響き”が漏れた。
(静かでも、歌える……。声にしなくても、届く……)
その共鳴が、封音帯の魔力制御にわずかな乱れを与え、空間の端に微細な波紋が生まれる。
彼女の内側で響いていた旋律――
音羽 静の願い、そして、今のセリアの願いが重なる。
(私は選ぶ。奪われても、封じられても。
誰の命令でもなく、“わたしの声”で歌いたい)
その覚悟が、沈黙の檻に小さな裂け目を刻んだ。
同時刻。
神殿の通路を抜け、レオンたちが封印区画に迫っていた。
「彼女がまだ歌えるなら――」
「なら、俺たちが応えなきゃいけないんだよ!」
リクの叫びに、誰もがうなずく。
そのとき――
神殿の奥に、わずかに波打つような音が響いた。
声ではない。けれど、確かに“歌”だった。
ジェイドが立ち止まり、石壁に手を当てる。
「……聞こえたか?」
「……ああ。セリアが、歌ってる」




