80.歌が裁く答えのない問い
沈黙――
それは、誰よりも多くの言葉を知る者が選ぶ、最後の答え。
セリアは神殿の外れにある小さな礼拝堂にいた。祭壇には火が灯されず、薄暗い石壁が静寂の空気を包んでいる。その中心で、彼女は歌わずに座っていた。
アリアは答えなかった。
祈りにも、呼びかけにも。
ただ、沈黙を返した。
だがその沈黙は、拒絶ではなかった。
あの日、封祀の間で歌った旋律は確かに“届いて”いた。響きは返らずとも、共鳴は感じた。
それが“聞かれた”という証拠だと、セリアは信じていた。
「……でも、それだけじゃ、足りない」
ポツリと漏れた言葉は、誰に届くわけでもなかった。
けれどその言葉が、今の彼女のすべてだった。
「またここにいたのか」
背後から聞こえた声に、セリアは振り返る。そこには、レオンがいた。淡い光の差し込む扉を背にして、騎士の外套のまま佇んでいる。
「考えてたの。あの日、女神が返さなかった答えについて」
「……俺も、あの沈黙が何を意味するのか、ずっと考えてた。拒絶なのか、試練なのか、それとも……」
「委ねられたのよ」
セリアの声は静かだった。けれどその声には、確かな震えがあった。
「アリアは、答えを与えなかった。命令も、導きもなかった。……だから、きっと、“選ばせた”の」
レオンは黙って、隣に座る。二人の間に、沈黙が落ちる。
それはかつてのような“恐れの沈黙”ではなく、“問いを携えた沈黙”だった。
やがてセリアは、そっと手のひらを開いた。
その掌の上で、小さく震える音の欠片が漂っていた。
かつて魔物の中枢から得た“破調の粒子”。ナノマシンの共鳴データを保存していた破片。
ジェイドが密かに渡してくれた、研究用の一部だった。
「これ……ずっと封印してたの。怖かったから。
もしまた、声が暴れたら、私自身が壊れてしまうって」
「けれど、使うんだな?」
レオンの問いに、セリアは静かに頷く。
「使うかどうかは、まだ決めてない。ただ、知りたいの。
わたしの歌は、“癒すため”だけのものじゃない。“問いかける”こともできるのかって」
「……問いかける歌、か」
その日の夜、研究棟の地下。
ジェイドとアイリスが、古代の記録に目を通していた。
「“自己判断モード”……つまり、受信側が“意志を持って”応答を返す状態か。完全自律に近い制御構造だ」
「それが、アリア中枢の本質……?」
「そうかもしれない。信仰の形じゃなく、響きの構造としてのアリア。
セリアがあの時、沈黙を受け取ったのは、拒絶ではない。
“応答を保留する自由”を渡されたってことだ」
アイリスは書物から目を離し、言った。
「でも、それが“自由”ならば……セリアは、何を選ぶの?」
ジェイドは苦笑する。
「それを選べるのが、セリアだからさ。僕たちはただ……その選択を見届けるだけだ」
一方、神殿の最上層。
調律の間でグラン・エスパーダはゆっくりと玉座に腰掛けていた。
彼の前には、数人の神官たちと側近の騎士たち。
「神は沈黙した。だが沈黙は“空白”を生む。
その空白は、すぐに“別の声”に埋められる」
「……セリア・ライトフォードの声、ですね?」
神官の一人が問う。グランは頷いた。
「そうだ。だからこそ、定義せねばならぬ。
“女神アリアの意思”とは、“こうあるべきだ”と。
声が乱れぬよう、秩序を取り戻す。それが我らの務めだ」
彼の目は静かに、そして確かに“排除”を語っていた。
夜の帳が神殿を包み、セリアはひとり、歌碑の前に立っていた。
風に揺れる髪の向こう、彼女の目には迷いがあった。
だが、その迷いは、信仰の喪失ではなく――問いを携えた意志の証。
「女神アリア。
もしこの声が、わたし自身の意志でしかないのなら。
それでも……世界は、聞いてくれますか?」
彼女はそっと、息を吸い込んだ。
そしてまだ歌わないまま、胸に残る問いだけを強く握りしめた。




