68.歌が裁く継がれし風
風が唸る渓谷の奥、石造りの建物の隠し部屋。
そこは外界と切り離された、時間の止まったような空間だった。
石壁には無数の譜面や音の波形を模した図が刻まれ、棚には羊皮紙や記録板が丁寧に並べられていた。
それらは、かつての歌詠士たちが記した“研究の痕跡”。
信仰の祈りではなく、“技術としての歌”を追い求めた者たちの足跡だった。
セリアは、目の前に佇む女性――風の記録者エルノアを見つめていた。
「この場所は……あなたたちがずっと守ってきたんですね」
「“守ってきた”というより、ただ“残しておいた”だけよ。
あの神殿に追われるようにして逃げ延びた者たちのうち、何人かがここに集まり、少しずつ記録を重ねていった。
でも……次第に皆いなくなったわ。
信仰に屈した者も、科学に飲まれた者も、そして……自分の声を信じられなくなった者も」
その言葉には、過去の重みがあった。
「でもあなたは来た。自分の歌を持って、そして――“開いた”。
ここに眠っていた旋律に、応答したのはあなたが初めてだった」
「私には……まだ足りないものがたくさんある。
けど、それでも前に進みたい。
この世界が何を隠していたとしても、歌が誰かを救える力なら、私は信じたいんです」
エルノアは微笑んだ。
「なら、あなたに“継いでもらいたい”旋律がある」
奥の保管棚から、エルノアは黒い譜面のような装置を取り出した。
それは音響媒体――“波紋記録版”と呼ばれる、特殊な記録形式だった。
セリアが受け取ると、指先にふるえるような感覚が伝わってきた。
装置の中に、強烈な“振動の記憶”が蓄えられているのがわかった。
「それは“破調の旋律”――かつて調律詠者が封印した、“強制変調”の歌。
簡単に言えば、共鳴する対象の“制御波形”を逆転させることで、システムそのものを無力化する術式」
ジェイドが目を見開く。
「まさか……音響干渉による逆相制御?
対象の歌との“調和”をわざと崩して共鳴破壊を誘発する……!」
「そう。非常に不安定で危険な技術。
正確に制御しなければ、共鳴者本人が暴走する可能性もあった。
だから古代の調律詠者は、この旋律を封印し、“必要な時が来たら継がれるように”ここへ預けたの」
「必要な時……?」
セリアが問いかけると、エルノアは静かに頷いた。
「“神の調律が乱れた時”――そう記されていたわ」
その言葉が、セリアの胸にずしりと落ちる。
アリアという存在が、信仰ではなくシステムであったという真実。
そして今、そのシステムは“誰かの手”で変質し始めている――
それを感じていたからこそ、彼女はここに辿り着いたのだ。
「私は……この旋律を学びます。
でも、“力”としてじゃない。
本当に必要になった時、それが“歌”として意味を持つように、私の中で鳴らせるようにします」
「それでいい。
あなたは“音の破壊者”ではない。
“調律者”なのだから」
エルノアは手を差し伸べた。
セリアはその手を取り、自らの胸に波紋記録版を抱いた。
その夜、焚き火のそばでリクがぼそりとつぶやいた。
「……なあ、セリア。
お前、怖くないのか? 今まで“神様の力”だって信じてたものが、実は“誰かが作った機械”だったって知ってさ。
それでも、前みたいに歌えるの?」
セリアは小さく笑った。
「うん。
だって、誰かのために歌いたいって気持ちは、作られたものじゃないから。
どんなに仕組みがあっても、そこに“想い”がある限り、私は歌える」
リクはしばらく火を見つめていたが、やがて静かにうなずいた。
「そっか。じゃあ……オレも、信じてみるよ。
“誰かのために歌う”ってやつをさ」
そして翌朝、セリアはエルノアの元を訪れ、深く一礼した。
「私、この旋律を持って進みます。
調律詠者として、“次の場所”へ向かいます。
きっと、まだ“知らなきゃいけない真実”があるから」
「ええ。だけど、忘れないで。
歌は力でも道具でもなく、あなた自身の“声”であることを」
セリアは微笑み、歌唱杖を手に取った。
そして、風の中に一節の旋律を放つ。
それは破壊でも支配でもない、優しく、確かな“再構築”の響きだった。




