67.歌が裁く風の行方
神殿を離れて数日――
セリアたちは王都ヴェルナスの北東にある辺境地帯「ノイ=ウィスの谷」へと向かっていた。
王都から遠く離れたこの地は、風が強く、渓谷の岩壁に沿って築かれた集落が点在している。
神殿の支配が緩く、旧来の信仰が根付いている反面、異端や“失われた歌”を受け入れる空気も残されていた。
セリアがこの地に向かうことを決めたのは、ジェイドが手に入れた一つの古い記録がきっかけだった。
――“歌を封じられし者たちの風、北東より吹く”――
記録に残された断片的な言葉。
それはまるで、誰かが未来に向けて“意志”を吹き込んだような詩的な記述だった。
「ここには、かつて“調律の術”を研究していた者たちが集められたという噂があります」
馬を進めながらジェイドが言う。
「異端審問を逃れた歌詠士、失格とされた調整官、そして……“風の記録者”と呼ばれる集団」
「風の……記録者?」
セリアが問い返すと、彼は軽くうなずいた。
「音を風に乗せて保存する、古代の歌技術を受け継ぐ者たちです。
その存在は半ば伝説のように語られていたけれど、ラグラン遺構で見た音響構造と一致する痕跡があった」
「じゃあ……もしかしたら、今もその技術が残ってるかもしれないってこと?」
「残っていれば、の話だが……君が持つ“調律の力”と共鳴する可能性は高い。
むしろ、そうでなければこの場所を選んだ理由がないほどにね」
セリアは頷いた。
自分の歩む道を確かめるには、“過去”と向き合わなければならない。
それが、今やっと手にした“自由”の意味だと彼女は感じていた。
谷に着いたのは夕方だった。
断崖に作られた小さな集落は、風が抜けるたび木板の家々が低く唸りを上げる。
だが、どこか心地よさすらあるその音は、まるで自然そのものが呼吸しているようだった。
セリアたちが訪れたのは、集落のはずれにある古い石造りの建物。
かつては祈りの場所だったと思しきその建物には、色褪せた旋律譜のような模様が彫られていた。
「この文様……音波を記録する導管の構造に似てる」
ジェイドが手を当てながらつぶやく。
レオンが周囲に目を配りながら言った。
「妙だな。人の気配がまったくない。
廃村というには整いすぎてる。最近まで誰かが手入れしてた形跡もある」
「隠れてる可能性もあるよ」
リクが小声で言う。
「だって、ここって……“異端者の残党”がいるかもしれないって話だっただろ?」
「その可能性も否定できません」
アイリスが真剣な表情で付け加える。
「ただし、セリアが調律の力を使えば――“反応”が返ってくるかもしれない」
セリアは一度深く息を吸い、建物の中心に立つ。
かつて祈りの声が響いたであろう空間に、今、彼女の歌が放たれる。
「――風よ、私の声を伝えて。
過去を越えて、今も続く響きに、心を重ねて」
その旋律は、優しく、けれど確かな芯を持って空間を震わせた。
まるで空気そのものが共鳴し、重ねた時間の層を“剥がす”ように。
すると、壁の一部が音に応じて低く震え、そこから“反応”が返ってきた。
カチ、と乾いた音。
隠し扉がゆっくりと開かれ、奥から人の気配が漏れ出す。
「……やっぱり、いた」
レオンが身構える。
だが、現れたのは武器を持った者ではなかった。
ゆっくりと扉から現れたのは、深い灰色のローブをまとった女性。
白髪混じりの髪を後ろで結い、鋭い目を持ちながらも、どこか優しさを含んだ空気をまとう人物だった。
「……あなたが、“今の調律詠者”ね」
その声は、風のように静かで、確信に満ちていた。
セリアは少し驚きながらも、一歩前に出て答える。
「……はい。私はセリア・ライトフォード。
かつての装置に触れ、歌の記録と響きを受け継ぎました。
あなたは……?」
「私はエルノア。風の記録者の最後の一人。
今まで多くの者がこの響きを求めてきたけど、あなたの歌だけが、扉を開いた」
その瞬間、エルノアの目に、ほんのわずかに揺らぎが生まれた。
「……長く待っていたのよ。
この“継承されるべき響き”を、再び誰かが抱いてくれるのを」




