54.歌が裁く記録なき旋律
古の譜面を歌い終えたその日から、
セリアの周囲には、見えない“沈黙の圧力”が漂い始めていた。
神詠騎士団の内部――
特に上層部の神官たちの間では、“封印譜の扱い”に関する極秘協議が続いていた。
「彼女が譜面を開いたのは事実だな」
「我々が封じてきた旋律に、再び命を与えた。これは、重大な信仰の逸脱だ」
「だが、彼女の力は本物だ。否定しても、もう“歌は届いてしまった”」
「記録から抹消された旋律が、こうして再び世界に響くというのなら……」
声を潜めながら交わされる言葉たちは、すでに“異端を裁く”というより、
“自らの立場を守るためにどう扱うか”という段階へと移行しつつあった。
一方その頃、セリアはアイリスと共に文献庫の一角――
使用されていない分類記録室を訪れていた。
「ここには、公式には存在しない譜面や研究記録が、廃棄処分の直前まで一時保管されているの」
アイリスは長く騎士団に所属し、正規記録の“抜け”に敏感だった。
「抹消される記録が、まったくの空白であるわけがない。
わずかな痕跡でも、“誰が何を書き、何を消したのか”――それを知ることが必要だと思う」
埃にまみれた記録棚の間を進みながら、セリアはふと、ある書簡の束に目を留めた。
羊皮紙に走り書きのように綴られた文字。
署名は――《エルノ・ヴァルス》。
「アイリスさん、この名前……見覚えありますか?」
「……エルノ?
……ええ、確か……以前、歌詠士として活動していた人物。
二十年ほど前、突然“信仰の教義に反する思想を持っていた”として、すべての記録から名前を消された人……」
「その人の手紙が、どうしてここに?」
セリアは一通を開き、内容を読み上げる。
『私は確信している。
歌が力を持つのは、女神の加護ではなく、“構造”そのものにある。
我々は、信仰に包んでその仕組みを忘れようとしている。
だが、音が共鳴し、世界に干渉するのは――確かな現象だ。
私は、消されるだろう。
それでも、旋律が残る限り、真実は消せない』
「この人……私と同じことを考えてた」
アイリスは息を飲んだ。
「……この記録が残っていたこと自体が、奇跡よ。
本来なら、抹消と同時に灰にされていたはず」
セリアは手紙を胸に抱え、静かに呟く。
「“記録なき旋律”……その意味が、今なら分かる気がする。
残されたのは、楽譜ではなく――思いだったんだ」
その夜、レオンが騎士団の中庭でセリアを待っていた。
彼の表情はいつになく硬かった。
「セリア。君の“歌”が、ついに上層部の中でも正式に議題になった」
「……そう、ですか」
「討伐とは別に、“異例の再審問”が行われる。
だが、これはただの形式ではない。
君を“神詠士として認めるか否か”を、今後の教義の根幹に関わる判断として扱うつもりらしい」
セリアは黙ってその言葉を受け止める。
「君は今、女神アリアの“枠外”に立っている。
それでも、戻ることを選ぶのか?」
「私は……この世界が“祈りと歌”だけでできているなんて、もう思っていません。
でも、“誰かを救いたい”という気持ちだけは、変わってないんです。
だから、祈りの歌であっても、科学の歌であっても、
そのどちらにも“本当の意味”があると、信じたい」
レオンは黙ってうなずき、夜空を仰いだ。
「ならば、俺も剣を置かない。
お前が“歌う理由”を貫く限り、俺は……その道を切り開く盾でありたい」
セリアはその言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
(私は、信じていい。たとえ、この歌が世界に裁かれるとしても――
この歌には、守るべき人の声が宿っている)
同時刻、団長グラン・エスパーダは、
封印譜を記した古文書を再び机に広げていた。
「エルノ・ヴァルス……お前が託した旋律は、二十年の時を超えて蘇ったか」
「だが、今度こそ問われることになる。
“信仰”とは何か。“歌”とは何か。“神”とは、誰か」
静かな部屋の中に、ページをめくる音だけが響いていた。




