52.歌が裁く無垢なる扉
王都ヴェルナス、神詠騎士団訓練場――
朝の陽がまだ低く、広場を照らすには心許ない時間。
それでも木剣のぶつかり合う音だけが、張りつめた空気を振るわせていた。
その中心に、リク・ハーシェルはいた。
数日前から、彼の剣にはどこか迷いが宿っていた。
それは目に見えぬ“問い”のようなもので、刀身の震えと呼吸の乱れに現れていた。
(セリア……)
彼女が王都を離れたあの日。
追いかけたかった。
けれど、何一つ言葉にできなかった。
その悔しさと、自分の未熟さだけが心に残っていた。
(帰ってきたのに……今度は俺が、どうしても近づけない)
セリアの“歌”は、確かに彼の心を揺らした。
あの夜、空を震わせるように届いた旋律は、確かに優しくて、どこまでも真っ直ぐだった。
なのに、なぜ人はそれを“異端”と呼ぶのか。
(信仰って……人を守るためにあるんじゃなかったのかよ)
木剣を収め、リクは深く息を吐いた。
周囲では、若い歌詠士候補生たちが、稽古の合間にひそひそと話し合っている。
その中に混じるのは、あの“歌”の話題だった。
「……あの旋律、本当にセリアさんの歌だったの?」
「信じられない。あんなに力があって、でも……怖くなかった」
「お祈りの時に聞いた神官様の歌より、ずっと……あたたかかった」
「でも、それを口にしたら、“信仰心が薄い”って言われる」
「異端の歌を称えるなんて……家族に知られたら、どうなるか分からないよ」
怯えと憧れ、信仰と疑念――その間で揺れる、若者たちの声。
リクは近づき、低くもはっきりと声をかけた。
「お前たち」
「……リク先輩……」
「その話、俺にも混ぜてくれ」
ざわめきが静まる。
リクは彼らの真剣な瞳を見渡し、続けた。
「セリアの歌は、俺も聞いた。
あれは“神を否定する”ようなものじゃなかった。
むしろ、ずっと俺たちが信じたかった“救い”そのものだったと思う」
訓練生のひとりが、おずおずと問いかける。
「でも……教義では、“攻撃の歌”はあり得ないって……」
「あり得ない、って誰が決めた? 神様か? それとも、人間か?」
リクは少し笑った。そして静かに告げる。
「俺たちが何を信じるかは、“声”に出さなきゃ届かない。
セリアはそれを、歌にして届けたんだ。
あとは、受け取った俺たちがどうするか――それだけだ」
訓練生たちはそれぞれに、戸惑いと希望の混じった表情を浮かべていた。
だが、その目の奥には確かに“考え始めた者の光”が宿っていた。
日が暮れ、王都の空が薄紅に染まる頃。
セリアは歌詠士隊の旧訓練室を訪れていた。
誰もいない室内。
埃をかぶった音律具が、静かに彼女を迎える。
ここは、彼女が初めて“祈りの歌”を練習した場所だった。
そして、初めて“自分の声”に迷いを抱いた場所でもある。
「……変わってないな」
彼女はそっと、ひび割れた音盤に手を置いた。
当時はただ歌うことしかできなかった。
でも今は、自分で歌詞を書き、旋律を組み立て、歌の意味を問うことができる。
(私は……少しは、前に進めたのかな)
ふいに、足音が廊下から近づいてくる。
「久しぶりだな、セリア」
振り向けば、そこに立っていたのはリクだった。
彼は扉の前で、どこかぎこちない表情を浮かべながら、歩み寄ってくる。
「……リク……」
少しの間、言葉が出なかった。
けれど、空白はすぐに言葉で満たされた。
「ごめん。あのとき、ちゃんと話せなくて。
目の前にリクがいたのに……それでも何も言えなかった。
自分のことで精一杯で、逃げるように……あの場を離れてしまった」
「いや……俺の方こそ。
本当は、あの時……“行くな”って言いたかった。
でも、怖くて――“異端者”って言葉に縛られて、動けなかったんだ」
二人は互いに目をそらさず、真正面から立っていた。
「……でも、あの歌を聞いた時、やっと分かったんだ」
「セリアが何を信じて、何を歌ってるのか……俺は、信じたいって思った」
「リク……」
「君が戻ってきたこと、それ自体が答えだった。
“変えられるかもしれない”って思わせてくれる力が、君にはある」
セリアの瞳が潤んだ。
この場所で、自分の存在が誰かに“信じられている”と感じたのは、いつ以来だろう。
「ありがとう……そう言ってくれる人がいるだけで、私は――進める」
リクは優しく笑い、彼女の肩に手を置いた。
「でもな、セリア。
君の歌を疑ってる奴も、まだたくさんいる。
だからこそ、前に立ってほしい。
君の声で、“信仰”を問い直す勇気をくれ」
「……うん。分かった。私は……もう逃げない」
その夜、騎士団本部の古びた書庫では、団長グラン・エスパーダが一冊の封印された楽譜を見つめていた。
古代詠唱構成式――
回復、支援、浄化、そして“調和による攻撃”。
それはかつて、異端とされた旋律の残滓。
『二重詠唱は神の支配を揺るがす。故に、重ねてはならぬ。』
グランは指先でページをなぞりながら、静かに呟いた。
「もしセリアが、“そこ”へ至るなら……
我らが信仰の核は、崩壊の時を迎える」
けれど、その言葉に、恐怖はなかった。
ただ、深い予感と――覚悟。




