76.護身術は却下された
お昼に戻ってきたシリル様は、口元を布で覆っていた。なんでもお相手の視線が唇の傷に集中するため、話し合いが進まなかったとか。申し訳ないわ。謝りながら、アーサーに提案した鍛錬の話をした。自分の身を守る護身術くらい、身につけたほうがいいと思うの。
「護身術を下手に覚えると、危機感が薄れるからダメだ」
よくわからない理由で却下された。なるほどと頷くダレルへ視線を動かし、じっと見つめる。なぜかシリル様を見てぶるりと震えてから、説明を始めた。
「まず、護身術は簡単ではありません。覚えた女性に見られる傾向として、捕まっても逃げられると自信を持つ人が多いです。つまり逃げるための危機感が薄れます」
捕まっても大丈夫と思うから、逃げ足が鈍るという意味かしら? 自信がつくため、そういった愚かな行動に出る人がいるらしい。王族は常に狙われるのだから、逃げることを優先してほしい……で、当たってる? 確認すると、彼は大きく頷いた。
「その通りです。王弟殿下の懸念はそこにあります」
斜め後ろのアーサーが付け加えた。
「鍛錬の最中、当然ですがケガのリスクがあります。また犯人役を務める者が、妃殿下の肌に触れる可能性があり……お勧めはいたしません」
「人妻だもの、確かにはしたない行為ね」
習うなら未婚のうち……いえ、淑女教育を始める幼い頃でなければ遅いんだわ。ヴァイセンブルク王国は平和だったから、牛や馬の突進を避けるのは出来るけれど……強盗や誘拐犯相手には役立ちそうにないわね。
「ところで……僕より腫れているね」
シリル様が悲しそうに眉尻を下げる。鼻も口も覆っているから、そこしか表情の把握ができないの。声も悲しそうで、私は申し訳なさが募った。
「いえ、シリル様がこうならなくてよかったと……思っています」
しんみりと話し、二人で落ち込む。何があったのか、聞きたそうなラーラと護衛二人に首を横に振った。カッコ悪くて言えないわ。だって、夫の上に跨って転んだら唇をぶつけたなんて。これで歯が折れていたらバレたでしょうけれど、唇だけだと判断できないみたい。
このまま隠し通そう。
「シリル様はこのあと」
「休みにしたから、一緒に過ごそう」
「はい」
ぼそぼそと小声で予定を確認し、微笑もうとして……唇の痛みに顔をしかめる。これじゃ、お昼も食べられそうにないわ。これ以上お腹が空いたら、取り繕う間もなくお腹の虫が大合唱すると思う。王弟妃として、なんとか堪えたいところね。
 




