29.自分の名前を間違えるなんて!
母国の使節団の方々と握手して、控え室へ戻った。クリスお義兄様や宰相達は、これから補償の詳細を詰めるらしい。私の希望は伝えたから、この国の大きな負担にならない程度に、そこそこ請求してほしい。
控え室の豪華なソファーに腰掛けたところへ、シリル様が歩み寄った。てっきり隣に腰掛けるのだと思って端に寄ったら、そのまま両手で囲われてしまった。これは……綺麗な顔が近いわ。照れてしまう。
「シリル様、どうなさいましたの?」
「さっき、名乗った名前がおかしかっただろ? 僕を実家に連れていくなら、そのまま向こうで暮らすのかな。僕を引き離そうと考えている?」
きょとんとして見上げる。綺麗な顔が苦しそうに歪んで、それもまた綺麗だなと感心した。整った顔って、どんな表情でも綺麗なんだわ。
「名前がおかしかった……?」
「ああ。家名の部分、なんて名乗ったか覚えてるか?」
アンネマリー・カリン・フォン・ヴァイセンブルク――あっ!
「ごめんなさい。今までの癖で、つい……私は人妻になったから、フォン・ソールズベリーと名乗るべきでした」
「……本当に、ただのミス?」
「はい。私、嫁いでまだ七日ほどですもの」
ぱちくりと瞬いて「七日」と繰り返すシリル様に頷く。目を逸らしたらダメよ。きっちり視線を合わせて、疚しくないと信じてもらわなくちゃ。
「そうか、そうだった」
ふふっ、嫁いできてから優しくしてもらえて、ずっと幸せだったの。もっと長く一緒にいるような気分ね。毎日が濃くて、忘れられない日々だった。これからも続けていきたいし、いつか本当の夫婦になって結ばれたいと思う。
正直にそう伝えたら、シリル様はようやく笑顔になった。
「え? あなた達……その、結ばれてなかった、の?」
入室したディーお義姉様が、途中から聞いて固まる。ソファーに私を押し付けて腕の檻で囲うシリル様は、けろりと言い放った。
「いや、もう手をつけた」
「……手はつけた、かも」
キスしちゃったし、人妻だからお手つきよね? 同意した私に、ディーお義姉様は「子供を産む話かしら」と小さく呟いた。え? あ、そっちのお話?! だったら合ってるけれど……今から訂正は遅いみたい。
ご機嫌になったシリル様が隣に座り、当然のように手を握った。逃がさないという意思がひしひしと伝わる。一本ずつ指を絡めて握り、その手を見ては嬉しそうに笑うの。
「マリー、私達に気を遣わず……本心を話して頂戴。本当に結婚したままでいいの?」
「義姉上、それはどうい……」
「シリル様、私が答えます。私はアリスター王弟殿下の妻で幸せですわ。政略結婚の意味合いは変わりましたけれど、気持ちは同じです。シリル様と添い遂げます」
言い切って、にこりと笑う。言葉を遮られたシリル様は、嬉しそうに緩んだ頬を立て直そうとするも、失敗した。




