ラストライブ デモ版
最初から、この時間は好きだった。
どうせ一歩踏み出してしまえば、緊張してたまらないのに。
忘れもしない。最初は5歳のころのピアノの発表会だった。
当時通わせてもらっていたピアノ教室は、それなりに名の知れているところだったので年に一度の発表会はかなり大規模だった。
観客の喧騒だけが耳に入る舞台袖。慌ただしく動き回ってくれているスタッフ達。
あの時舞台袖で感慨にニマニマしていた少女は、今肩にかかったショルダーキーボードのひもを強く握りしめる。
振り返る。
各々の得物を手にした仲間の姿が見える。私は彼女らに笑いかけた。
その奥、舞台袖の隅っこで川名ちゃんが、光る棒(公式名称はユナイトブレードというらしい)を握りしめながら私を見ようとつま先立ちしているのが見える。
「川名ちゃーん! いってきまーす!」
私は口パクしながら手を振って飛び跳ねる。
光る棒を振って川名ちゃんは応えてくれる。
「川名さんはかわいいねぇ」
ギター担当の堀田真が川名ちゃんの方を見ながら言う。
顔がほころんでいるのが自分でわかっているから少し恥ずかしい。真ちゃんがこっちを見ていなくてよかった。
「でしょう? 自慢のマネージャー。荒畑さんは?」
「ん? あーたしか、一階席のどっかにいるらしい」
「え、まさか一般客?」
「そー。なんかね、『最期だけは観客として観たいから会場入りして諸々やったら退勤します』って言って聞かなくって」
そんなにうまくない声真似を披露してくれた。
「いいなぁー。私のなんて今日別の娘の現場行ってんだよー。こっちはラストライブなのに」
ドラム担当の平ヒオリが不満そうに言いながらスティックを振り回す。
「伏見さん、忙しいからね。仕方なし」
ベース担当の一ノ瀬クララがなだめる。
「クラっさんとこの原さんは?」
私はここまで来たら、全員分のマネージャーの所在を知らないと損した気分になる気がしたので一ノ瀬クララに聞いてみる。
「関係者席。川名ちゃんの近くじゃない?」
「ふーん」
胸の隅の蟻が動いたような気がして返事がおざなりになってしまった。
「響花ちゃ~ん、嫉妬?」
堀田はそういうのに目ざとい。良くも悪くも。こういう彼女にイラついたことも助けられたことも多い。
「そんなんじゃないよ」
「大丈夫。原さんはバツ2」
「クララちゃん、それフォローになってない」
私は耐え切れずに笑ってしまった。他の三人も笑っている。
いい感じに気持ちが軽くなった。
そろそろだろう。イヤモニにプロデューサー―の鈴木の声が届く。
「これが最後だ。ぜひ楽しんできてくれ。十数えたら登場。いいね」
観客席からのカウントダウンとプロデューサーのカウントダウンが重なる。
最初のライブなんては鈴木の声しか聞こえなかったのに、今では観客の声にかき消されてほとんど聞こえない。
四人で来れなかったステージもあった。大失敗したステージもあった。だが、そのすべてを鮮明に覚えていしどれもいまとなっては良い思い出だ。
私は目を閉じた。
次の瞬間自分を包み込むであろう拍手の渦に備えて。
最期の最初の一歩を踏み出した。
音楽業界というのは厳しいものだ。芸大を出て、海外の有名な学校に留学までしても名を上げられることが保証されるわけではない。運がないとだめなのだ。
私はその「運」がない側の人間であった。
アメリカの音楽学校に行き、ヨーロッパの有名なコンクールでトップに輝こうともダメなときはだめなのだ。でも、若かった私はその理を深く理解していなかった。
「ごめんなさい。あんまりいい仕事がなくって。」
「いいですよ。別に。私の実力が足りないだけですから。」
所属していた芸能事務所のマネージャー川名恵理との会話はいつも疲れる。マネージャーが十割悪いとは思っていなかったが、正直、仕事が無いのは六とか七割くらいはマネージャーのせいだと思っていたし、自分の実力が足りていないと本気では思っていなかった。
別に、奢っているわけではなく客観的にそう捉えるのが妥当であったし、当時も毎日ピアノに向かっていた。
だから、やり場のない焦りと怒りをひた隠しにして笑い続けなくてはならない川名との週一ミーティングは嫌いであった。
「どうしても本山さんの希望のクラシック系のお仕事は競合が多くって、私の力不足です。」
「いえいえ、それだけじゃないですよ。」
音楽家はイメージが重要だ。後世に名を遺すなら尚更。どんな記録も残る2020年代の世界では発言に気を付けなければならない。多少の毒は混ぜるが。
川名が申し訳なさそうな顔をする。
川名さんは多分新卒だ。じゃなきゃこんなに無能であることに言い訳が立たない。
川名に対する愚痴だけしかなかったわけではない。自分自身が活躍の幅を狭めていたのは分かっていたし、そんな自分のことを頑固者と認識はしていた。
クラシックにこだわっていたのは、自分がそれしかやってこなかったというのもあったし、当時の私はここ数十年の内に台頭した電子音楽や、所謂アイドル音楽を認めていなかったというのもあった。あれらは魂のこもっていない軽薄な雑音であると本気で思っていたのだ。
アイドル音楽だの最近のジェイポップは売れるための音楽でしかない。当時の私を動かしていたのは、そんな意味のない音楽死んでも奏でてやるものかという捻くれた妄執であった。
「で、本山さん。相談なんですけれど、」
川名が申し訳なさそうに切り出す。
ついに私のマネージャーをやめる決心がついたのかと喜びの気持ちと、なぜもっと早く言わないのかという怒りの気持ちの殴り合いを脳の隅に追いやり、私は、
「はい。なんですか? 」
にこやかに首をかしげる。いい子ちゃんアピールはこういうこまごまとした所作が重要だ。
「このオーデション受けてみないですか? 」
私の冠番組、「いい子ちゃんアピール生活! 」は唐突に放送を中止した。
拍手がそれなりに止んだタイミングを見計らって、ショルキーをピアノモードにして指をかける。デビュー曲「拝啓 この世界へ」だ。
ピアノから始まり、次にギターが入る。
優しい曲ながらも確かな熱量を感じることができる曲だ。
観客の反応は上々だろう。特徴的なピアノイントロは彼らの心を燃え上がらせるのに時間をかけない。
観客の期待値は高い。私はドラムのヒオリと目を合わせながら一音目に指をかける。
今回のライブは私たちのグループ「DEAR WORLD」のラストライブだ。
「DEAR WORLD」通称ディアワーは、「MUSIC OF EVERY WORLD」MOEWというソーシャルゲ―ム内のバンドユニットである。MOEWは人間と人型の魔物、通称魔族が共に暮らす世界で、キャラクターたちがお互いの種族の違いなどによる誤解や争いを乗り越えて音楽活動をするというストーリーをもったストーリー重視の革新的音楽ゲームである。」
川名から渡された資料を、芸能事務所のこぢんまりとした応接室にて、小声で音読していた私は自分の眉間を抑える。
「どうですか。」
先ほど、思い出すのもはばかられるほどの汚い言葉を思わず吐いてしまった私を川名は怯えたような目で見る。
「こんなゲームのアイドルユニットなんて…シット! 、やりたいわけないしょう! どうですか? とかの次元じゃないんですよ! それにこれってキャラクターの俳優? 声優? 藻やんなきゃいけないんでしょ! 無理無理無理!」
「あの…」
「なに?」
「このままでは、仕事がないんです」
川名はそれまで出したことのなさそうな声量を出していた。
「それはあんたのせいでしょう!」
私はたかが外れてしまい思ったことを言ってしまっていた。
「そうです。私のせいです。私が無能だからです。でも私だけのせいでもありませんよ!」
「はぁ?」
「クラシックは競合ひしめく世界です。世代交代が半世紀サイクルでしか起こらない業界です。そこで成功するには実力だけじゃ足りない、運も必要なんです」
「私が不運だって言いたいの?」
「そうです。それにまだありますよ」
私のせいで、私だけでなく川名のたかも外れてしまったようだった。
「あなたはなぜこうもクラシックにこだわるんですか? 日本人のほとんどが名前すら知らないコンクールで金賞だったからですか?」
「言わせておけば! あのコンクールは参加すら簡単じゃない!」
「でもなまえを知らない人しかいない場所ではただの金メッキでしかないです」
私は自分のこれまでの努力を無駄だと言われている気がして、必死に声を荒らげていた。
「だから何? 知らない人には私の音楽を聞かせれば済むはず。その機会がないんじゃどうしようもないでしょ!」
川名は負けじとさらに声量を上げた。
「だから! その機会をあなたが捨てているんですよ! 分かります? あなたみたいな若い音楽家には実はたくさん仕事が来るんですよ? でもねあなたはその中から少ししか選ばない。それで毎回落ちてここに戻ってくる。私もたくさん探そうと努力していますし、もっとできるはずだって心から思ってますよ。でもですよ、それでも難しいんですよ。この業界って。あなたのそのプライドが邪魔しているんです。私と本山さんの努力を」
私は何も言えずに視線を机の上の資料に落とすしかなかった。
「このゲームの運営はこういったメディアミックスの経験が豊富な企業です。これに受かればかなり名前が売れます。そうすれば、ソロ活動もできるかもしれない」
私は顔を上げて川名を見つめる。
川名は目を真っ赤にしていた。
「本山さん。クラシックへの情熱は捨てなくてもいいです。でも今は、今だけは、その情熱とプライドを忘れてくれませんか。あなた自身のために。私を信じてください」
そういわれてしまっては本山の言うとおりにするほかなかった。
「どのキャラクターですか?」
せめてかわいいのがいいなと思い資料をあさった。
川名は一瞬喜びを顔に映した後、真面目な顔を作って資料の文字を指をさしてくれた。
「このキーボードパートってやつです」
役名決まってないのかよと、私は心の中で毒づいた。
キーボードパートとしか書かれていなかった役は案外簡単に手に入った。ショルキーの扱いには慣れが必要だったが、苦ではなかった。ボーカルも随時兼ねるとのことだったので録音を送ったり、オーディションで披露したりもしたが大学時代の授業で取っていたのでそこまで苦労しなかった。演技が最大の懸念点だったが、合格したということは、まあ壊滅的ではなかったのだろうと考えることにした。
合格の連絡を川名から受けた時、彼女はとてもよろこんでいたし涙さえ流していたが、自分はやはりそこまで喜べなかった。
他のメンバーとは顔合わせ会で出会うことになっていた。都内のとある音楽スタジオにて行われたそれに私はオーディションのために購入したショルキーを持って向かった。
「こんにちは。今企画のプロデューサーを務めます鈴木勉と言います。これからどうぞよろしくお願いします。君たちも気になってると思うんだけれどキャラクターの名称はもうちょっと待ってほしい。機密保持とかそういう話じゃなくて単純にライターが考えあぐねているんだ。だから、当分はバンドの方に専念してほしい」
初めに鈴木と名乗ったプロデューサーの挨拶が始まる。
なんでも「ディアワー」を単なるアイドルユニットではなく音楽的にも優れている最高ロックバンドとして作り上げたいそうだ。何を言ってるんだと思ったがぐっと飲みこんだ。
「キーボードパートの本山響花です。ピアノを大学までずっと続けていました。演技経験はないですが、精いっぱいやりたいと思います。よろしくお願いします」
私は無難な挨拶をした。
「ギターパート堀田真です。別の某ゲームでギターのキャラをやってます。こういう企画にはなれているのでわからないこととか不安なことがあったら気兼ねなく聞いてください。よろしくお願いします」
堀田真、私の嫌いなタイプの音楽家もどきでないことを願いたい。
「平ヒオリです! 地元でご当地アイドルをやってました! ドラムはオーディションのために始めました! なので皆さんの足を引っ張らないように頑張りたいと思いまーす!」
鈴木の目標を一番に阻害しそうな女だなと思った。
「一ノ瀬クララ。平さんと同じく元々アイドルをやっていた。その時の芸名のまま活動をしている。ベースは高校時代から趣味でやっていた。よろしく」
クールぶっている痛々しい女だと思った。
「じゃあ、さっそく課題曲になっていた曲A、正式名称『拝啓 この世界へ』の合わせをしてみようと思う。準備はできていますか?」
全員の自己紹介が終わったタイミングで鈴木が号令をかけた。
このメンツでしょっぱなからうまくいくもんかねと訝しみながらショルキーをケースから出す。隣にはギターの堀田がいた。
「本山さんだよね、よろしく」
「えっと、堀田さん。よろしくおねがいします」
私は丁寧に答える。
「タメ語でいいよ。呼び方も真とかまこっちゃんとか隙に呼んでくれていい」
馴れ馴れしい奴だが、悪い人ではないと思った。
「そうしま、そうする。真」
「うん」
堀田の笑顔がまぶしい。嫌々来ている私とは大違いだ。彼女とは仲良くなれそうだ。
少し離れたところでチューニングをしている一ノ瀬には若干近寄りにくい。あとで話しかけよう。平とはあまり話したくない。絶対に苦手なタイプだと思った。
堀田に話しかけようと思い振り向くと彼女は足元のごちゃごちゃした箱の中のメーターとにらめっこしていた。こういうのは邪魔してはいけないと相場が決まっている。音大時代の苦い思い出が脳裏をかすめる前に別のことを考えよう。
そんなことを考えながら、視線をさまよわせていると同じく暇な一番話したくない人間と目が合ってしまった。
「響花ちゃん!」
堀田よりさらに馴れ馴れしかった。
「平さん」
「ヒオリでいーよー」
平はドラムセット備え付けの椅子にラフに座っていた。
「響花ちゃんは音大に通ってたの?」
ヒオリは目を輝かせながら聞いてくる。
「ええ。はい」
「すごーい! なにやってたの?」
「えっと主にピアノなんだけど、声楽もちょっとだけ」
「へぇー! やっぱりレベル高いんだろうなぁ。本山さんぼーかるもやるんでしょ。たのしみだなぁ! きっとレベル高いんだよね!」
なんと答えたらいいか悩んでいると思わぬところから助け舟があった。
「ヒオリ、私も堀田さんもチューニング終わったから。始めるよ」
「クララちゃん! 分かった。よぉーし」
二人は知り合いだったのだろうか。なんだか姉妹のように見えて微笑ましかった。だが、それよりも大きい気持ちが私の中にあった。
緊張が走った。全員オーディションで演奏しているとはいえ顔合わせは数十分前、合わせるのは当然初めてだ。それに実力なんて私以外のは信じるに足るものではない。偽物の音楽を奏でてきた人間の音を信頼などできないし、したくなかった。
私はヒオリを見る。先ほどまでいた彼女はいなかった。真剣そのものの表情でスティックを振り始めている。
ここでたじろいではいけない。
彼女の拍子に耳を傾ける。
最初の二拍でわかった彼女は本物だ。
三拍目、彼女をなめていた自分を呪った。
四拍目、せめて彼女を満足させようと腹をくくった。
私は一音目に指をかけた。
私の指は正確に旋律を奏でる。私は堀田を見る。堀田は笑っていた。
堀田のギターは練習通りに完璧に入ってきた。
期待半分不安半分といった様子の観客はそこで気が付く。私たちの演奏クオリティの高さに。
ファーストライブは、ソールドアウトとはいかずともそれなりに観客が入っていた。なんでも堀田が言うには、コンテンツ以上にこういったメディアミックスによるバンド活動自体を追いかけてくれる人間が一定数いるらしくガラガラにはならなかった。
少なくもない観客を一度に引き付けるギターを彼女は演奏できたし、私も引き付けられた一人だった。
リズミカルな低音が曲を支える支柱の一本に入った。
精確な音は私の耳から入り心を震わす。
クララはヒオリを注視している。それは初合わせの時もファーストライブの時も、ラストライブの時も変わらなかった。
クララはいつもヒオリのリズムに完璧に合わせていた。
そんな思いやりさえ感じる力強い低音は曲をさらに分厚くパワフルにする。
私は息を吸い、マイクに向かって口を開いた。
ラストライブだからか、演奏中大盛り上がりしていた観客は落ちサビに入った途端いつもの数倍静まり返った。
演奏中乱れなかった伴奏から離れる落ちサビ、自分の声だけなのが寂しい。早く彼らと一緒の曲に戻りたい。
観客も待っている。爆発の瞬間を。
これで最後なのかと私は寂しさをかみしめる。私は伴奏が戻ってくる最後のサビが始まる瞬間の爆発が、始めて演奏を合わせた日から大好きだ。
歌いきれ。
私の目は驚嘆と歓喜に満ちていたと思う。
彼女らの音楽に負けるな。
今まで音楽をやってきた中で一番楽しい!
もっともっともっと!
終わってしまう。
ピアノ以外の楽器が新しい振動を生み出さなくなっていく。
私のピアノだけになってしまった。
寂しい。けど、満足だ。
そうしてすべての音が止んだ。
拍手の気配が近づいてきた。
私は彼女らに申し訳なさをかんじた。
お手洗いに行きたいと言って、プロデューサーの感想を待たずにトイレに駆け込んだ。
嗚咽が漏れた。
音楽に感動したという単純なものではない。
魂が震えた。こんな経験は初めてだった。
素晴らしい音楽を奏でることができた充足感があった。
だがしかし、それよりも自分のこれまでが否定された感覚が私にのしかかった。
私が忌み嫌っていた類の音楽がこんなに素晴らしいものだったのか。
こんなに素晴らしいものを遠ざけ続けた自らの価値観を呪った。
その価値観にのっとって歩んできた自らの人生の意味に疑問さえ湧いてきた。
どうして自分はこう捻くれていたのだろうか。
「そうだ…あっ」
私は大きなミスをしていた。
「大丈夫? あー救急車、呼ぶ?」
一ノ瀬クララであった。
私は前後不覚であったため、個室のドアを閉め忘れていたのだ。
自分の顔が熱を帯びていくことに気が付くのにそう時間はかからなかった。
別の涙が目にたまっていくのには気が付かないふりをした。
「———ッ!」
私があの瞬間どんな言葉を吐いたのか、それは私とクララの間の一生の秘密だ。
とにもかくにも、私の化けの皮はまたここで剥がれてしまったのであった。
ラストライブも後半に突入しようとしていた。その前に途中休憩で楽屋に戻ると、久方ぶりに見る顔がそこにあった。
「響花ちゃん久しぶり」
「舞!」
私は友人の姿を見て飛び跳ねた。
「舞ちゃんだー!」
「舞」
「おっ舞」
後に続くほかのメンバーも各々反応を示す。
「今日は来てくれてありがとう」
私は舞の手を握りながら言う。
「こちらこそ、一曲だけしか担当しなかったサポートメンバーなのに。呼んでくれてありがとう」
「私もうれしい。共演は始めてだから」
私の後ろにいたクララがいつの間にか私の横に来ていた。
「よし、五分後また舞台袖ね!」
私は号令をかけた。
トイレでの出来事から私はクララとよく話すようになっていた。
その後なんやかんやでなぜ泣いていたかを話してしまい。クララとはそのまま仲良くなってしまった。彼女はとてつもない聞き上手だった。
ゲームの音声収録の休憩時間も一緒にいることが多かった。
彼女は他人を尊重する術に長けていたし、それでいて自己を主張することも忘れなかった。
活動は順調であった。
ゲームも開始一年半を迎え、他のユニットも負けず劣らずの人気を獲得していた。その中でも頭一つ抜けた人気をディアワーは獲得しており、その年の大きめの夏フェス「Fフェスオブロック」なるものに出演することが決定した。そんな春先のある日のことであった。
「夏フェスか~」
収録前に夏フェス出演の話を聴いた私は夏フェス経験のなさから夏フェスへの想像を掻き立てられていた。
「夏フェスはあついよ」
クララは脚本をチェックしながら会話を続ける。その日は私とクララの収録だけであった。
なんでも、ペアカードなるものができるらしい。その目玉が私のキャラクター、アリーナとクララのキャラクター、エラが共演したものだというのだ。
その収録前の空き時間、私とクララはスタジオの待合室のようなところに座っていた。
「あついってそりゃ夏だし暑いよ」
「気温も気持ちも…熱くなる。それが夏フェス」
「なるほど、アイドルの時は、出たことある?」
「うん」
「そっか~。冬場でさえ照明が熱いのに、夏とかは本当に大変そう」
「うん」
「観客も私たちも熱中症に気をつけなきゃな」
「うん」
彼女が寡黙なのはいつものことだがその日は殊更だった。
「大丈夫? 体調悪い? なんかいつもより口数が少ないから」
「大丈夫」
「そう?」
私たちの番らしく顔なじみのスタッフがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「行こう」
クララは立ち上がると三歩ほど進んだ先で私の方に振り返る。
「アカデミー賞は私のもの」
そういいながら私は立ち上がった。
「じゃあ助演は私」
クララは私の冗談にいつもノッてくれる。
「いや二人で主演女優賞をとる!」
クララは笑ってくれた。
クララは次のバンド練習に来なかった。
「サポートメンバーの舞です。フリーのベーシストです。よろしくお願いします」
クララが音信不通になってから二回目のバンド練習で舞はやってきた。
「よろしくお願いします。キーボードとボーカルの本山響花です」
「ギターの堀田真。よろしく」
「クララちゃんの代わり?」
私も真も好意的に出迎えたが、ヒオリはあからさまに機嫌が悪かった。
「まあいいや。私、平ヒオリ。よろしく」
まあ無理もなかった。ヒオリとクララの演奏はまさに以心伝心。リズム隊として不動だった。そんな片割れをいきなり失いどこの馬の骨とも知らない人間と組めと言われたら私もいい気はしないだろう。
喧嘩などにならなきゃいいが。
「舞ちゃん。すごーい!」
「そうかな。ありがとう。ヒオリちゃん」
杞憂であった。
その日のバンド練習が終わるころにはクララと舞は仲良くなっていた。
舞のベースはクララのそれとは違うが、負けず劣らずの安定感があった。クララのベースを千年たっても崩れない歴史的建造物に例えると、舞のベースは現代技術を集めて作られた鉄筋コンクリートの高層ビルであった。もちろんそれぞれの共通の良さと別の良さがある。
つまり、舞は素晴らしいベーシストであったわけである。
夏フェスでの披露楽曲は、「拝啓 この世界へ」と新曲「〇×オブマッドネス」というディアワーには珍しかったギャグテイストの曲であった。ファンの中には路線変更めいたこの新曲はクララの恒久的な脱退を意味するのではないかと邪推する者もいたがそう多くはなかったし、それは間違いである。
ベースの出番が多いこの曲はクララのために作られた曲だ。彼女が練習に来なくなる前から曲自体は存在していたし、彼女自身嬉々として練習していたように見えた。だから曲のせいではない。私はそう考えていた。
「〇×オブマッドネス」のイントロはベースから始まる。ラストライブでは、特別に掛け合いのようになるようにアレンジが加えられた。舞が〇パートでクララが×パートだといったのはライブの打ち合わせの時のクララであった。
ヒオリのスティックが四拍子を奏でる。
舞とクララは互いの顔を見て演奏を始めた。
舞のベースソロを待って滑り込んだ私の歌声は夏の日差しが照り付けるステージにあっても彼女のベースが作り出す高層ビルに保護されていた。
クララのそれとは違う歌いやすさがそこにあり、観客もその完成度の高さに一曲目に引き続いて唸っていた。
もちろん元々あった、レトロな安定感というものがなくなったと感じていたがこれはこれでいいなと私は感じていた。
この曲にはベースソロがある。舞一人のソロもかっこよかったが、二人でやるとより曲的に面白みが出る。これがこのラストライブ一回きりというのはあんまりだなと私はショルキーのストラップを握りしめる。
いきなり交代したベーシストの思いがけない好演奏に観客は万雷の拍手を送った。
大粒の汗をかきながら舞は観客の声援にこたえ、手を振った。
舞とクララは手を繋いで、共にお辞儀をする。そろってはいなかった。だが私も真もヒオリも観客もみんなが拍手を向けていた。その拍手は二人が手をほどき、舞が舞台袖に消えクララが次の曲の準備をしようとアンプに近づくまで続く。私達バンドメンバ―の拍手にクララは少し驚いた顔をする。だが、すぐに笑って面倒くさそうな顔をする。
私が夏フェス感じた興奮の熱はすぐに冷めることになった。クララが正式にバンドをやめるというのだ。
楽屋に戻ってスマホを見た瞬間に目に飛び込んできたのはバンドのグループチャットに送られたクララからのメッセージの受信を示す通知だった。
慌ててロックを解除して目に飛び込んできたのがバンドをやめるという文面なのだから肝が冷えた。話がしたいと伝えるとクララは当初渋っていたが結局、後日スタジオにメンバーで集まろうということになった。
「次が最後の曲ですわ」
私は最後までMCに対する苦手意識が抜けなかった。アリーナはお嬢様キャラだ。喋り方がかなり特徴的なので苦労した。台本がある分にはいいが、即興が苦手でいつも変な喋り方になってしまう。そんな私を真はいつもニヤニヤ笑いながら見ている。ライブ後にいつもと喋り方が違うだのなんだの毎度の如くからかわれるのだ。
「この曲は唯一、私たちが自作した曲なのですわ。途中いろんな人の手をお借りしま…いたしました。改めて感謝を。そしてここまで一緒に来てくれたファンの皆様にありがとう。私アリーナのなかに本山とかいう女からこう言えと言われたのでお話しさせていただきました…わ?」
観客席から笑いが起こる。
即興お嬢様言葉は苦手だ。だが、ウケたからいいだろう。
「では聞いてください…『the soul』ですわ」
バンド練習でしか使ったことないので、先に来てしまった私と真、ヒオリは世間話もほどほどに楽器をセッティングしだしてしまった。クララのことを話すのはなんだか気が引けてしまったのだ。
小さい音で各々適当に演奏している中、フードを深々と被ったクララがスタジオに入ってきた。
「みんな…おはよう」
三人とも、一斉に演奏をやめてしまったため気まずい沈黙が生み出されてしまった。
「まず、話してほしい。どうしていなくなったのか」
「響花…」
歯に衣着せずぬ言葉を発した私に真が声をかける。
「私はこれを聞くために、こんなクソ暑い中ここまで来たの。クララ、聞かせて」
「クララちゃん無理して言わなくていいよ。私が代わりに言おうか?」
ドラムセットを睨みながらヒオリが言う。
「待って、ヒオリはクララがこうなった理由を知ってるってこと?」
「そうなの? ヒオリちゃん」
私に続いて真もヒオリを問い詰める。
「予想がつくってだけだよ。だから勝手に言うのは無しかなと思って言わなかった」
そういわれてはヒオリを責めることはできなかった。
「いいよヒオリ。自分で言う」
「クララちゃん…」
クララはフードを脱ぎ、ベース用のアンプの前に置かれた丸椅子に腰かける。
「私は前にいたアイドルグループを裏切ってここにいた」
「裏切って?」
「私がいたのはそれなりに有名なところでさ、大手よりは力はなかったけどそいつらに負けないくらい頑張ってたしいい曲もあった」
こんなに饒舌な彼女を見るのは初めてかもしれない。そう思って真を見ると彼女の目にも驚きが渦巻いていた。
「でも、それなりに有名じゃ、届くところに限界があった。それを打ち破るために始まったのが…」
「そこまで言われれば分かるよ。それで?」
中途半端な優しさだったかもしれない。だが、決定的なことを彼女に言わせたくなかった。
「この業界、女の子が主役っていっても仕切ってるのは男だからね。そういうことがあるのは知っていたし、噂も聞いてた。最初に選ばれたのは私ともう一人の子だった。でも私は嫌で嫌で…それで…」
「クララちゃん…」
「逃げたんだ。今回みたいに。連絡を絶ち切って」
「もしかして、その相手って」
「夏フェス、Fフェスオブロックのプロデューサー。の大野」
「その年のFフェスオブロックに私の古巣は出演した」
「———ッ」
「このバンドがしたかどうかは関係なくて、私があのステージに立ちたくなかった。裏切った私が同じステージに立っていいはずがない…違う違う違う違うそうじゃない! 本当は! 分からなくなったの。音楽が…」
クララは俯いて涙を流し始めた。
「考えないようにしてた! 音楽が汚されたって! 私やほかのメンバーが身を捧げたものが…有名になるために汚れてしまった。同じステージに立ったら同じ土俵に立ったら汚れたも同然なんじゃないかって。結局自分だ。自分は汚れたくなかった! だからあのステージに立ちたくなかった! だから! 逃げた!」
同じような考え方に思い当たる節がありすぎた私は何と答えたらよいか分からなくなり俯いてしまった。俯いたところでキーボードは助けてくれないのに。それでも白鍵と黒鍵を睨む。
「響花。昔のあなたは正しいよ。音楽に貴賤はある」
「そんなことない」
「あるよ。わたしは、もうあなたの音楽を前みたいには聞けない…」
「いや、私は汚れてない。見ろ! 聞け! 私の演奏を」
私は丸椅子に座ったクララに前に仁王立ちしてキーボードに手をかける。
「音楽の価値を決めるのは理屈じゃない。魂だ。付属情報じゃない。曲を聞いて魂が震えたかどうかだ。今ここであんたの魂を震わせてみせる」
私はキーボードに手をかけた。即興は久しぶりだ。クラシックとロックがごちゃごちゃになりそうだなと考えながら1音目を入力する。
ぐちゃぐちゃだ。大学でこんなもの披露した暁には、落単確定だ。でもそんなことはどうでもよい。気にするべきはそこではない。
「私は死んでも! このメンバーでバンドをしたい! 舞は確かにいいやつだけどディアワーのベースはあんたがいい。クララ!」
やっとまとまってきた。一本の旋律がおりてきた。それをまとめて形作る。
クララの目が一瞬輝いた。
後ろでシンバルの位置を上げる音がした。
「来た時にやっとけよ!」
「ごめーん!」
完璧なコードが加わった。
「真! それループさせてよ!」
「合点承知の助!」
厚みが増してきた。
「たりないんだけど!」
クララの足がリズムに合わせて地面をたたいている。
「早く! 来て!」
クララが泣いている。瞳から大粒の涙を流している。今の彼女なら答えが出せると思った。
「魂は震えた?」
立ち上がったクララはドアをあけ、ベースを探して走り出す。そんな彼女の体は受付カウンターにぶつかって止まる。
「ベース! レンタルいくら?」
「えっと一時間七百円です」
「十時間分」
「えっと…」
「十時間分!」
ベースとシールドを両手にクララは走る。
「やっと来た!」
「おかえり」
「クララちゃーん!」
クララはチューニングもいい加減なベースをかき鳴らし始める。
「よしよしよし!」
私は興奮していた。こんなセッションは初めてだ。
「ただいまぁー!」
クララが叫ぶ。
曲は佳境だ。もうすぐ終わってしまう。素晴らしい瞬間が。アリーナとエラ、私とクララの掛け合い、そしてそれを包む真とヒオリのコーラス。正真正銘これは四人の歌だ。
この曲を最後に入れるというのは早い段階から決まっていたし、その点で四人の意思は一致していた。
歌が終わりギターとドラムが残る。
最後の最後だから盛大に。
いつもより長く。
いつもより大きく。
終わってほしくない。
ああ、楽しい。
一際大きな盛り上がりを作り、空気の振動の発生を二人は止めた。
残っているのは余韻だけ。
私はその後に巻き起こる拍手の渦に身を任せるために目を閉じる。
了