★月織る花
【※PG12程度の性的描写があります】
――……何処か遠くに置き去りにして来た、もう一人の小さな『アマリ』が泣いている。
愛してほしい。抱きしめてほしい。何者でもない、ただの私を認め、受け入れてほしいと叫んでいる。
ほんの一時でもいい。自分は確かに愛されているのだと感じたかった。
その愛が、どんなものかもわからない、実在するのかさえも知らないのに、そんな事を、今も切望している……
互いの温もりある存在を味わっているうちに、いつの間にか二人は崩れるように倒れ、荊祟の身体はアマリに覆い被さり、彼女の背が畳に密着する形になっていた。それでも止まらない焦燥にまかせ、頬や額にも唇をあてる。
首筋にも口付けようと、アマリの着物の襟に指を滑り込ませようとして、鋭利な爪先が白い鎖骨付近に触れた。
「い、た……」
微かな悲鳴にはっ、と醒め、荊祟は我に返った。
「すまない。……怪我は?」
「大丈夫、です。少し……驚きましたが」
彼女と違う造りの身体を、荊祟は初めて恨めしく感じたが、アマリは頬を薄紅に染めながら、鎖骨付近に手をやった。その眼は煌めき、潤んで揺れていた。瑠璃の万華鏡のように。
「やり過ぎた。……不快だったか?」
ばつの悪そうな眼差しの奥に、雄の本能なのか、妖艶にぎらつく黄金が垣間見えている。気づいた瞬間、アマリの頬は更に熱くなった。
「貴方様と、こうしているのは…… 嫌じゃ、ありません。……心地よい、です」
「……そうか」
か細くも恍惚としたアマリの返答に安堵し、高揚した荊祟は、もう一度触れたくなった。が、自然に動いた指先を制した。ごく、と熱い塊を呑み込み、代わりに彼女全てを見つめる。
いつか贈った麹色の着物に包まれている華奢な身体が、橙の灯りに照らされている。妙に艶かしく映り、誘い、魅せられるような衝撃が襲ってきた。
――……この眼で見たい。この布の下に隠されている、この娘の素肌…… さぞかし美しいだろう……
「荊祟様……?」
不安気なアマリの眼差しに、はっ、と我に返る。『何を考えている』と生まれたばかりの煩悩を追い出した。
「何でもない。ぼんやりしていた。俺とて、このような行為は慣れていない」
「そう、なんですね……」
それが本当なのは、先程の一連の触れ合いでわかった。気遣ってくれている中の戯れは、激しい中でも、どこか覚束なさを感じた。だが、自分を相手にしてくれた事が嬉しかった。
もっと先に、互いに一糸纏わぬ姿で触れ合う行為がある事は、漠然と知っている。時には情の有無は別に、伴侶となった者と契る行為である事も…… 生涯に一度だけでも、好いた相手とそんな経験をしたい。密かに望んでいた事の一つなのかもしれない。
我ながらはしたない……と自省したが、そうでなくとも、ただの『アマリ』という、一人の女として生きたかった。傍にいられさえいればいいと思っていたはずなのに、いつからこんなに欲張りになってしまったのだろう……
「冷えてきたな。――着ろ」
春は近いが、まだまだ夜は寒い。アマリの背の傷跡を避けながら抱え起こした後、荊祟は自分の漆黒の羽織を被せた。
「……ありがとうございます」
一族の長という高い身分でありながら、荊祟は着物に香を焚き込んでいない。いつ誰に狙われるか分からない、陰の一族だからだろう……と、アマリは察した。香り一つで危険に晒される事もある。
それでも、仄かに鼻腔を擽る彼の香りが、喜びと安堵を呼び起こした。
「……不思議な気分だ。こんな緊迫した時分であるのに、妙に落ち着く」
「はい。私もです」
彼も同じ気持ちなのが、嬉しかった。宵に落ちるまでの、泡沫の夢だというのに。
「――いつかお前に、地獄とは此の世だと言ったが」
唐突に、以前アマリに放った持論を、荊祟は再び口にした。
「その地獄にお前がいたという現実が、未だ解せぬ」
「荊、祟様……?」
「よく……生きていてくれた」
アマリの視界が揺らぎ、眩しくてふるえた。この神様は、どうして怖いくらいに光をくれるのだろう。
「……人形か、屍のように、生き長らえていただけです」
そんな狭く閉ざされた籠の身であった中でも見聞きした、人族の界の災厄を思い出す。そして、元凶の一つと忌まわれていた、この厄界で生きる荊祟やカグヤの苦難。
「私だけでなく、様々な生命が集まり生きている場では、程度の差はあれど苦行は避けられないと存じます。情ある生き物なら尚更……」
「……その中を、お前はこれからどうする? 灼熱にやられるか、耐えるか、強かに凌ぐか、自らが番人と化すか」
「わか、りません…… ただ、どんな過酷な場所にも、花は咲きます。焼かれたらその灰が糧になり、長い時を経て、また次の命が芽吹く」
彼が心配してくれているのが伝わる。自分でも今後の行く末が見えず、不明瞭で混沌とした闇しかない。稀な能持つ尊巫女と謳われ、皆に持て囃されてきたが、それは本当の自分の力では無い気がしていた。
「泥水さえも吸い上げて花咲かせる種、僅かな水分を糧に生き延びる種、自ら毒を体内に生み出し身を守る種もあります。……ずっと、そんな花になりたいと願っていました」
意思も生命力も無い。そんな弱々しい自分が嫌いだった。逞しく強く生きる力が欲しかった。けれど……
「ですが、耐性の無い花も同じくらい、いとしいと思っていたのです。……矛盾してますよね」
「……食うか食われるか、と言われるのが常な世だからな」
生易しい理想論を語るアマリを案じてか、少し皮肉めいた口振りで荊祟は返す。
「確かに……愛でるだけの花など生きる糧にならないと、仰る方もおられます」
「命には、必ず終わりがある。皆、死に向かって生きているようなものだろう。……だが、生き抜いて花実咲かせる命と、死んで初めて生きる命は違う」
ふと、荊祟はアマリを称する花を思い出し、足元の畳に触れた。
「耐え忍び、懸命に生き…… 尚、邪に腐らず、蘇る命は尊い」
「はい。どんな花も滋養ある蜜を他種に分け与え、やがて実が成り、枯れた後は種を残します」
子供の頃から信じてきた、アマリの確固たる理念だった。人族を始め、あらゆる生物の体を養い、活かす為の術に成る。
「――同じだ。お前と」
いつになく真摯な荊祟の眼差しにアマリは射貫かれ、胸が甘く高鳴った。だが、心は晴れない。
「私、は……強くも尊くもありません。何の花にもなれなかった」
空っぽな奥底には負が巣食い、然りと根付いている。それらの情が芽生える度に摘み取り、踏み棄てた残骸。それは、毒にも糧にもなれないまま積もり、無駄に重くなるばかりで…… 言うなれば、足枷だ。
「――亜麻璃」
反射的に彼を見た。……が、まるで違う者の名のように聞こえた。
「お前の名の由来……亜麻」
「はい」
「花咲く時間は短い。が……残された茎や葉は、麻という生命を支える基となる」
「何故、知っておられるのですか」
人族の界でも同じだった。そして、どの社でも、注連縄や神事に使用する神具にも使われる。神に携わる身として生まれた自分の、もう一つの名の由来でもある。
「これでも一つの世界の長だ。民の生活を念頭にしている。衣食住全てに麻は欠かせない。今、俺達を支えている、この畳もそうだ」
屋敷の畳はい草ではなく、一族のこだわりで、あえて麻を使っている。
「ある異国では、月を織る花と云われると耳にした事がある」
「月……?」
心細さに堪らなくなった夜は、いつも離れの部屋の障子窓から月を見ていた事を、アマリは思い出す。毎夜、仄かな明かりで心を慰め、姿形を変えて時の流れを教えてくれた。
「繊維は月光の如く輝き、靭やかな頑丈さを持つ。そのような形で強さを発揮する種があっても良い。……いや、無くては困る」
「荊祟様……」
「どんな形であろうと……生き延びてくれた。だから、出逢えた。必要とするならば、どんな環境……地獄でも生きられるよう手助けするのが、利用し搾取する側の義務だと、俺は考えている」
既に凝視していたアマリを、更に覗き込む。これからの彼女に、必死に言い聞かせるようだった。利用や搾取などと神らしい尊大な表現だが、確固たる誠実さ、優しさ溢れる激励だと、アマリは感じた。
それくらい、彼の言葉、眼差しには光明があった。これが神力か、呪いであっても良いと思うくらいに。
「だから、助けた。これからも、生きていて欲しい」
「ありが、とう……ございます……」
いっそ本物の亜麻になりたいと、密かに願う。紬糸となり、月を編みたい。そうしたら、彼の姿を遠くからでも見ていられる。寂しいけれど、きっと心強い……
――嗚呼…… けど、このお慕いする気持ち……『すき』という情は、消えてしまうのだわ……
この飢えて干上がった胸の奥に、温かな水が降り注がれる感覚。一時の事とはいえ、沁みて満たされてゆく心地良さも知らず、ただ宙に存在するだけの物体になるのだ。
情故に弱くなり、愚かにもなる一方で、強くも賢者にも、善人にもなれる。どこで、何が分かれ道になるのだろう。
人族というのは、本当に難儀な生き物だと、異種の二人は同じ事を考え、耽っていた。
別れの時が、刻々と近づいている。悲壮感に潰されそうな心に苦しみ喘ぎながらも、今までには無かった力が生まれ、漲り始めた自分を、アマリは感じていた。




