合わせ鏡
「離れにいらっしゃらなかったので、こちらではないかと参りました。アマリ様のお怪我の手当て……恐れ入ります」
「構わん。お前も足労だったな。もう少し早いとみていた。黎玄づてに知り得てはいたが、任務中の負傷者が多かったようだな」
「はい。一先ず応急処置だけされ、暫く待ちましたもので。ですが、構いません。任務ですし、いくらでも動きます」
「――何か、あったか」
声をひそめて背を向けていた荊祟は、少し離れたカグヤの傍まで移動して座り込み、報告を聞く。
「人族の界で不穏な動きがあるようです。探りを入れようと先入していた忍が怪しまれ、手討ちされかけたらしく…… 間一髪、逃げ延びたようですが」
「……そうか。そろそろ仕掛けて来る頃合いと考えていたが」
「長様」
無機質に淡々と報せていたが、どこか物言いたげな口ぶりだったカグヤは、一転、静かな声色で訴えた。
「貴方様は、この界を治める主です。そして……これ以上、アマリ様を不幸にされる事だけは……お止め下さい」
主は勿論だが、自分と同じく、すぐ傍に横たわる人族の女を、この忠実な部下は本気で案じている。
「――俺のもう一つの姿、眼の力について話したか」
「……! 私ごときが許可も得ず、誠に申し訳ございません。お二人を見ていて、あの方には知らせるべき事だと、恐れながら独断致しました」
「カグヤ」
深く土下座して詫びるカグヤに、荊祟は清閑な口調で、告げた。
「俺は不幸をもたらす厄神だが…… せめて、この娘に対してだけは、そう在りたくない。出来るに限るが……何をしてでも、と決めたのだ」
確固たる決意を宣言した長に、カグヤは驚愕した。だが、どこかでその言葉を聞きたかった気もする。
「……長様がそうお決めになられたのなら、私は何も申しません。ただ、それは神族の長としてですか。一人の男として、ですか」
「何が言いたい」
「そこまで肩入れされるのが不思議なのです。政に関しても、決して私情を介しないと謳われておられる、貴方様が……」
以前、自分がされた問いと同じ事を、カグヤは無意識に尋ねていた。
「――わからん」
鋭利な眉をひそめ、腕組みをしたまま自身に問うように呟き、項垂れた。刹那、そのまま仰ぐように、天を見上げる。
「百年以上存在してきたが、人族の……特に、恋だの愛だのという情は、理解出来ないまま生きてきた。それは、今でも変わらない」
父である一族の長を破滅に追いやった原因でもある、盲目的な激情か、狂わせる欲望……という認識でしかなかった。
「ただ……彼女には、どうにか生きていてほしい。――それだけだ」
一寸の間の後、自嘲気味に付け足す。
「殆ど、私情なのやも知れぬな。生かすなら彼女にとってなるべく安寧の場で、とは考えてはいるが…… それが己の傍であってほしいとも……望んでいる」
「長様」
初めて本音を洩らした主に、終始茫然としていた部下を、意味ありげに荊祟は見遣った。
「お前になら……理解出来るのではないか?」
左腕の包帯への視線に気づき、感嘆を込め、カグヤは頷く。
「何故、アマリ様……尊巫女の護衛という重大任務に、くノ一としてまだ未熟な私を選ばれたのか……ずっと不思議でした。油断させる為に年若い者を……という理由だけではないでしょう?」
この確固した決意も強力な呪いのようだと、密かに嘲笑えた。が、たとえ狂気めいた縛りだとしても、それでも良いと、誇れる自分もいる。
今度こそ、自分の大切な人、尊い人を……救いたい。その力になれるのなら、何でもできる気がした。
部屋に置かれた姿見に視線を送りながら、今度はカグヤが問う。
「私達は似た者同士。そして、あのアマリ様も……あらゆる箇所が異なるけれど、どこか似ている。無意識であれど、貴方様も覚られていたのではありませんか」
鏡に映された己の姿形は同じだが、動きは真逆に映っている故、別の自分のようにも見える。
「……お前が、くノ一として秀でていると判断したからだ。それに、間違いはなかった」
つられて荊祟も姿見を見遣り、僅かに苦笑しながら答える。
表裏一体した三種の鏡が合わさる時、向こう側に映された己は、また少し朧に異なる。
憎悪に呪われた自身の魂は転じてゆき、いつの日か解放の時が来る。厄を多く生きる二人は、そんな予感がした。
障子窓から仄かに射し込む陽光に、微睡んでいたアマリの意識は醒め、眼を開いた。至極、幸福な夢を見た気がする。こんな心地よい目覚めは、一体いつぶりだろう……
軽く首を振ると、自分は柔らかな羽毛布団に包まれているのが判った。だが、今では見慣れた光景に変わった離れの部屋ではない。もっと広々としていて、間取りも家具の仕様も全く違う。襖の柄も家財道具も、控えめで品ある印象だが、上質なのが判る。一晩で、何処やの奥座敷に移動したようだ。
「お早う御座います。アマリ様」
「……カ、グヤ、さん⁉」
唯一、聞き慣れた凛とした声に引き寄せられたアマリは、布団の傍に正座する彼女に気づいた。いつもと違う左腕の痛々しい包帯に気づいた瞬間、眠気が一気に覚め、青ざめる。昨晩の出来事が次々に甦り、激しい罪悪感が再び湧き上がった。
「あの、お、お怪我の具合は……⁉」
「大した事ありません。仕事上、よくある程度です。暫くの間、少々不便にはなりますが」
ようやく自分の背の痛みにも気づき、顔を歪めるアマリに苦笑し、「そんなにご心配されないでください」とカグヤは付け足す。その姿に引きずられ、その後の出来事も朧気な脳裏に再生され、アマリの頬が薄紅に染まった。
表情はまだ乏しいが、こんなにも感情を体現させている彼女が、カグヤには感慨深かった。
「好い仲になられたのですね。長様と」
「……⁉ 違、います。昔の事を思い出して、泣いてしまい……慰めて下さったのです。それだけです」
「……板挟みの中でも、貴女様を助けに来られたのですよ。お怪我の手当ての事も伺いました」
「そ、そうです。その後、優しくして頂いたのです。話をして、仲……は、良くなったかもしれませんが」
初めは、彼女らしく謙遜や羞恥で言っているのかとカグヤは思ったが、どうやら本気で恋仲になった訳ではないと考えているらしい。
昨夜、荊祟が洩らした告白を聞かせたいと思ったが、勝手に告げて良いものか……
「……暫くは安静にしているようにと伺っております。今日は、この階をご案内しましょう。長様は、もう務めに出ておられますので」
相変わらずすれ違う二人に、無表情のままのカグヤは、内心頭を抱える。自分も色恋の類いは疎いのだ。どうしたものか教えて欲しいと、焦れるしかなかった。
夕刻。逢魔ヶ時。アマリとカグヤの住まう隣室を荊祟は訪れた。珍しく浮かない表情を見せる彼に、二人は少し驚き、慄く。
「密命を下した側近と話した。やはり……お前と会った……あの者だった」
「……そう、でしたか」
「先代と同じ道をゆくのではと懸念したらしい。増して、後継となる子を成さぬまま逝くのは、長として無責任、言語道断だと」
重く熱くなった息を、アマリは呑み下す。致し方ない、至極当然の忠告だと思った。その行為は、自分と荊祟の間では許されない……
「どうしてもお前を生かしたいのなら、他界に行かせろと申してきた」
「……‼」
「前例に無い花能の使い手を受け入れる長は限られているだろうが、元・尊巫女という肩書きの妾か側室が欲しいという、名家の主相手なら可能やもしれぬと……」
言い難そうな彼の声で放たれる話が煮え湯となり、アマリの喉奥から胸を焼いた。懸命に痛みを堪え、平静を装う。
「……そんな方……いらっしゃるでしょうか」
「稲荷の界なら望みはあると、交渉を始めるそうだ。……彼らが好むのは豊穣に必要な異能者だからな」
「……陽を喚ぶ能を持つ姉が、数年前……輿入れされました。その後の経緯は知りませんが」
「そうだったのか」
今ならわかる気がした。おそらく、姉は稲荷の長の伴侶になったのだと。治癒能力では務まらないが、本当に萌芽促進の素質がアマリにあるなら、輿入れする可能性もあったのだ。既に伴侶がいるなら、自分がゆく必要は無い。
――姉様なら、当然だわ。皆が口を揃えて、とても賢くてお綺麗だったと言われた方だったし…… 後で叱られるかもしれないのに、こっそり優しくしてくださったような方だもの……
ふと、姉の日向の栗色がかかった黒髪は、陽光が当たると黄金に輝いていた事を思い出す。それは、荊祟の眼光のようで……
「――皆様の為にも、私自身の為にも、その方が良いと判断致します」
取り留めのない考えを振り切り、作り慣れた毅然とした声色で、元・尊巫女は答える。
「本当に殊勝な女子だな。お前は」
「恐れ入ります」
穏やかに苦笑しながらも、どこか哀しげな眼差しの荊祟を、アマリは神妙に見返す。精一杯の嘘を吐いていた。
胸の底では誰かが、悲鳴をあげている。彼と離れたくない。みっともなくとも、惨めでも構わない。どんな形でもいいから、此処に居させて欲しいと、泣いて叫んでいる。
だが、息するように蓋をして、密かに隠す。昔からの憂鬱な習慣だが、今はどこか誇れる自分がいた。
※この章は、もう一話続きます。次も肆の章になります。




