★禁じられた者
安堵したのはカグヤも同じだ。そんな彼女に荊祟は背後を見ず、労いの言葉をかける。
「遅くなった。よくやった」
長の姿を目にした隊長は、静かに、素早く刀を鞘に戻し、収めた。自身に命じた者も畏れる、界の主だ。
「予想より、お早いお越しでしたね」
「……お前は、今夜は別任務のはず。しかし、誰も姿を見ていないという。側近の四名を問い質している中で、この騒ぎだ。誰の差し金かは、大方の予想はつくが」
闘気が消えた相手に、怒りを努め静め、刀を構えたまま荊祟は説いた。
「――長様。その尊巫女をどうするおつもりですか」
外見だけなら自身と変わらない年頃の主に対し、打って変わってシン、とした声色で、隊長は返した。
「近日の長様の変化は、忍の私でなくとも明らかです。親しい者程判る。故に、貴方様と界を案じた方が、私に命じられた。……罰せられるのを覚悟して」
今の現状を憂いめいた口調で語る部下の姿が、影を落とした黄金の眼に映る。荊祟の胸中に哀しい罪悪感が走った。己の判断と不甲斐なさから起きた不祥事を受け止め、解決せねばならないと……
「立場上、その女を殺せない事情は解ります。ですが、閨事が不可なら、妾にも出来ない。そんなに御執心なら、傍に置くだけでも……何かと、問題でしょう」
慎重に言葉を選びながら、隊長は忠告する。荊祟の口元が僅かに引き締まり、揺れた。構えていた肩が下り、切れ長の眼が伏せる。
一方、アマリは事態の深刻さと共に、閨事という単語に動揺し、狼狽えた。荊祟の背中越しで、密かに頬を熱くする。相手が神とはいえ、比較的高い位の輿入れを控えた女として、漠然としか知らずにいた事柄。そして、全く頭になかった展開だ。
「とりあえず……この事は内密にし、任務に戻ってもらおうか。お前に命じた者には、俺が直談判する」
「長様」
「その代わり、お前は処罰しない。不用意に騒ぎを広めるのは得策ではない」
「……御意」
その言葉を最後に、隊長は突風の如く消えた。彼を見届けたと同時に、荊祟は振り返り、アマリを見遣る。
「さて。次は、お前の今後だ」
どこか切羽詰まった表情だが、淡々と静かな低音で話を続ける彼に、アマリはようやく落ち着きを取り戻した。琥珀に戻った眼に向かって、返答する。
「は、はい」
「今後は、本堂の……俺の部屋がある階に住まえ。無論、カグヤと共に」
「っ⁉ ……はは、い」
一連の衝撃や恐怖も吹き飛び、瑠璃の眼が揺れた。無意識に変な声を出しそうになったが、少なくとも彼から離れなくて良いのだ、という安堵感が、この展開と処遇を自然に受け入れていた。
「長様。宜しいのですか。いくら内密とはいえ、尊巫女が離れから消えたら、すぐ屋敷内に噂が広まります」
「……今の状況下では、こやつがまたどんな目に遭うか判らん。仕方あるまい。だからこそ、お前と共に来てもらう」
襖が外れ、丸見えになった暗がりの廊下から、心配そうに声をかけるカグヤに、荊祟はきっぱりと返す。一瞬、アマリを目にしながら言い切る主に、彼女は息を呑んだ。
「こやつは俺が連れていく。お前は医師の元へゆけ。任務中に負傷したと申せば良い」
「……了解しました」
アマリの身を案じているのは自分も同じだ。了承し、深く頷いた。
手拭いで自ら傷口を縛ったカグヤは、黎玄と共に瞬く間に消えた。彼女も瞬間移動はお手の物のようだ。
急いで少ない手荷物をまとめたアマリも、荊祟に抱えられ離れを抜け出た。どうやら彼方此方に隠し扉や抜け穴があったらしく、離れから去ると、あっという間に本堂の瓦屋根に辿り着く。そこから再び、木製の渡り廊下に降り立ち、駆け出す。
ずっと、一つの界の主の御殿らしくない、立派だが質素な外観の屋敷だと思っていたが、人族の界の忍者屋敷のような造りなのだろうか……と、まだ錯乱しているアマリの思考は捉えていた。
「着いたぞ。入れ」
流れるまま運ばれながらも、今までの事を耽っていたアマリは、荊祟の言葉で我に返った。
見事な水墨画で猛々しい鷹や鶴が描かれた、豪奢な襖を荊祟自らが開け、アマリを招き入れる。
「ここ、は……?」
「俺の書斎、兼寝所だ」
「……しっ……⁉」
離れの部屋の倍以上はある、広々とした畳部屋を眺め、圧倒されていたところに、そんな心臓に悪い……いや、艶な予感を匂わす言葉に、アマリは反射的に後退る。
「……案ずるな。お前は、カグヤと隣の空部屋に住まえば良い」
屋敷の上層……一族の血縁者が住まう階の部屋が、空室な理由をアマリは茫然としながらも覚り、彼の孤独な境遇を改めて憂いた。
「そ、そうですね。本当に……ありがとうございます。助けて頂いた事も……」
不躾にならないよう配慮しながら室内を見渡しつつ、先程の事件が甦る。恐怖、安堵、それから――
「カグヤさんは……大丈夫でしょうか……」
哀しい、罪悪感。任務とはいえ、体を張ってまで自分の命を護ってくれた。共に食事をし、相談事に付き合ってくれた。アマリの中では既に護衛以上の存在だが、友人と言うには遠くて、姉代わりと言うにはおこがましい……――恩人だ。
「お前はどうなんだ。斬られなかったとはいえ、身体をかなり打ったようだが」
「私は、大丈夫です。大した事ありません」
「大した事、なんだな。どこが痛むか教えろ」
「ほ、本当に、大丈夫です!」
詰めた後、黙り込んだ荊祟は、そっ、とアマリの左の肩甲骨付近に手をやり、軽くさすった。
「……つっ……!」
「やはりな。何故、そうやって一々、痩せ我慢をする」
「少し、痛む程度でしたから…… カグヤさんの方が、ずっと酷い怪我ですし、私の事など……」
一瞬の間の後、荊祟は深く、静かな溜息を吐いた。彼女の考えている事は、大方予想出来る。自分を庇って、深手を負ったカグヤに遠慮しているのだろう。
「カグヤはカグヤで、きちんと治療させる。お前はお前の身体を案じれば良いだろう」
「……カグヤさんは、私のせいで難に遭われたのに…… 私が痛むなどと、騒げません……」
やはり、と荊祟は呆れた。が、謙虚でありながら、どこか卑屈めいたアマリらしい考えに、許容と同情が交えた温かなものが、彼を包む。
「カグヤは自身の任務を全うしただけだ。お前が気に病む謂れは無い。それに」
然りと言い聞かせるよう、説いた。
「お前が自分の痛みを我慢して、あやつが喜ぶとでも思うのか」
はっ、と何かが覚めた思いで、アマリは荊祟を見上げた。考えもしなかった事だ。
「そう、ですね。益々、気にされてしまいますよね……」
どこまでも自分を蔑ろにしがちな彼女に、荊祟は今更ながら、深い哀しさを覚えた。この娘の精神の傷は、相当……
「……今の状況下では、医師含め部下が信用出来ん。お前の傷は、俺が手当てする。見せてみろ」
「――え」
「応急処置の施術は心得ている。任せれば良い」
「いえ、あの……」
アマリは俯き、自身の襟元に目をやった。慌てて飛び出して来た為、寝間着の襦袢姿なのを思い出した。慣れない類いの恥ずかしさが込み上げ、頬が熱くなる。そして、左肩付近の素肌を晒すという事は……
完全に固まってしまったアマリに、ようやく荊祟は自身の失言に気づく。彼も少し頬を薄紅に染め、きまり悪そうに呟いた。
「……診るのは、片側の背中だけだ。前は隠せば良い」
下ろした長い黒髪を胸元に垂らし、更に手拭いを腹に巻いた後、荊祟の手当てを受ける。夜更けの暮明の中、障子から透ける微かな月明かり。そして、行灯の橙に照らされたアマリの姿は儚くも、魅惑的だった。
「軽度だが……打撲だ。暫くは痛む」
そんな動揺を密かに打ち消し、荊祟は、そっ、と赤黒く腫れた痛々しい患部と、周辺の白い素肌に順々に触れる。壊れ物を扱うかのように、ゆるり、と指でなぞられる度、激しい羞恥と、名の知れぬ胸の高揚に襲われ、アマリは錯乱した。
「……平気、です……」
ただ怪我の手当てをされているだけなのに、今すぐ逃げ出したい反面、身体は甘やかに震え、全身の皮膚が泡立つ衝動的な感覚。そんな自身が、どうにもいけない存在に思え、居た堪れなかった。
「……助けが遅れて、すまなかった。家臣の企ても見抜けなかった。お前にあんな大口を叩いておいて……情けないな」
「いえ! もう来てくださらないと、考えていましたから……」
離れに来なかった理由がずっと気になっていたが、様々な事態が続き、切り出せなかったアマリは、彼の思わぬ言葉に反射的に首を振り返した。
軟膏らしき薬の器を手にした荊祟と視線がぶつかる。哀しげな琥珀の眼が、微かに揺らいだ。いつか見た、和い熱を含んだ、どこか艶のある――
「――お前を嫌った訳ではない」
此程美しく、魅惑的なのに凄まじい力を持つ眼が、傷つき、悩み、苦しんでいる荊祟自身を滲ませている。
今の彼は――何者なのだろう。神か。化物か。忌まわしき『生き者』か。アマリにも、彼自身にも……判断しかねないでいた。




