琥珀の能
あの時の温もりと共に、哀しげな和い熱のある眼差し、何より初めて目にした彼の微笑を思い出す。そんな恐ろしいモノとは程遠いと思った瞬間、アマリは必死に誤解を解こうと口を開いた。
「そんな、そんな御様子はありませんでした。高笑いや痣なんて……!」
自分の感覚に確証など無い。不明瞭な怖さもあったが、この瞳に映っていた姿だけは、信じたかった。
「御家臣様から上のくノ一づてに、この仕事を始める時に聞いた話です。私も実際に目にした事はありません。ですが……」
懸命に主を庇う人族の女の姿に、カグヤは複雑そうに続ける。行灯の橙の灯りに照らされた彼女の顔には、微かな動揺が見え隠れしている。
「微笑とはいえど、変貌が無いまま楽しげに笑われたお姿も見た事がありません。おそらく、この界全ての者がそうでしょう」
次々に明かされていく意外な真実に、アマリは思考も言葉も失い、茫然とした。話を理解は出来るが、受け入れられない。
「……貴女と接する時、長様は、より人族に『近く』なるのかもしれません。それが良い事なのか悪い事なのかは、私には判りかねますが…… 大きな変化が起きているのは確かでございます」
自分と関わる事で、厄神である彼に少なからず何かの影響が出ている……つまりはそういう事なのだろう。事態の深刻さに、アマリも本来の自分の在り方、課せられた企てが久しく甦り、すっかり眠気が覚めた脳裏をひやり、と刺した。
「――それから」
一息つき、今まで以上に表情を張り詰め、真剣な眼差しでアマリを凝視したカグヤは、一層、物々しい声色で告げた。
「私達、厄界の者全ての眼は琥珀に似た色をしておりますが、長様の眼は一際、特殊な力を宿しておられます」
「特、殊……?」
声を震わせる彼女に、カグヤは神妙に頷く。この人族……尊巫女には伝えねばならないと、覚悟を決めたように。
「長様の眼には、呪いの力が宿されています」
「⁉」
「古のとある時代、琥珀は祈祷師を始め、魔除けなどの神聖な儀式に使用された媒体の一つだそうですが…… 時には悪しき呪いに用いられた史実もございます。長様は妖厄神として、その真の琥珀を、眼に受け継いでおられるのです」
「……ほ、ん……物」
無意識に口元を抑え、掠れ声でアマリは復唱する。琥珀は艷やかで美しい石だが、その負の歴史と恐ろしい威力は、尊巫女の知識として知っていた。禁術に利用する尊巫女や異能者がいたという事例も……
「人族の界に災厄を引き起こす際に使用される…… あの方の能の源なのです」
内容の重大に、カグヤは自分を信用し、心配してくれているのだと、アマリは覚った。彼女が話してくれた話は、頭では理解した。
だが、心の奥では、別世界の全く別人の話、他人事のように遠く感じていた。
その夜、一睡も出来なかったアマリは、自身に何度も問いかけた。今まで見聞きしてきた荊祟と、先程知った彼の厄神としての顔が交差し、混乱する。何を信じ、何を受け入れたらいいのか…… そんな事が決められる程、彼女には知識も経験も、自信も積み重ねていないのだ。
そして、どんなに抗っても逃れられない、本来の自身の在り方を痛感する。人族の尊巫女だから出会ったが、だからこそ相容れてはいけない存在……
――どうして、私は、この異能を授かったの……?
今日、荊祟が離れに訪れた時、どんな顔をしたら良いのか分からず、朝が来た後も困惑していた。
が、彼は来なかった。数日経っても、何も音沙汰が無い。カグヤも何も聞いていないらしい。黎玄が来た気配もなかった。
カグヤは『長様も揺らぎ、悩んでおられるのでは』と慰めてくれたが、初めて彼に避けられているという事態に狼狽え、打ちのめされている。
自分に会いに来る事は義務でもないし、約束をした訳でもない。その事に今更ながら気づき、アマリは愕然とした。彼との間に、確かな繋がりなど無い。いつ終わりが来るかわからない、曖昧で不安定な関係でしかないのだと……
そもそも、自分に負の念が全く無いとは思えない。自身の内の奥深い所で、いつも何かが蠢き、微かな悲鳴をあげている気がしていた。それは、決して綺麗なものじゃない。どんな姿形をしているのか判らない、何種もの重苦しい物体が、痛みを伴いながら、どろどろ、と混ざり合い、滞留している。
そんな気持ちの悪い邪……厄神である荊祟なら見逃さないはずだ。それなのに何故、今まで変貌がなかったのだろうか……
そんなある深夜。初めて見る類いの悪夢をみたアマリは、また魘されていた。
黄金の眼光をぎらつかせ、全身に呪言の文様の痣を発した、人の姿を崩していく荊祟が、今にも自分に襲いかかろうとしている。
もうだめだ、と縮こまるアマリの身体を、彼はきつく抱き締め、高らかな雄叫びをあげた。
刹那、哀しく微笑い、『ニ・ゲ・ロ』と告げ――……
……――瞬間、強烈な寒気を感じ、はっ、とアマリは眼を開いた。ぼやけた視界に映る、自分に向けられた烈な殺気ある圧と、鋭利な銀の閃光――
「――⁉」
「アマリ様――‼」
聞き慣れた凛とした音の、尋常ない叫び声が耳に飛び込んだと同時に、柔らかな重みがアマリの身体に伸し掛かり、そのまま吹き飛んだ。
床に何かがグサリ、と突き刺さる鈍い音と同時に、壁に二人分の身体がぶつかる大音量が響いた。襖が外れ倒れ、辺り一面に埃が舞う。
「……っ!」
「カグ、ヤさん‼」
我に返ったアマリは、自分に覆い被さる重みがカグヤだと気づき、悲鳴をあげた。鋭利な刃で斬られたのか、左腕から赤の鮮血が流れている。苦痛に顔を歪めながらも、カグヤは背後を向いた。
「曲者‼」
忌々しい者の方を睨みつけ、くノ一は叫ぶ。床に刺さったモノを素早く抜いた長身の影が、ゆらり、と近づいて来た。直線に伸びた刀らしき物を手にしている。
少し離れた床下から開いた隠し扉を目にやりながら、黒ずくめの者は淡々と言葉を放つ。
「腕を上げたな。少々見くびっていたようだ」
「隊、長……?」
一転、間の抜けた声色で、影から現れた名を呼ぶ。ずきずきと痛む傷口を抑えながら、信じ難い姿を見たのだ。長と屋敷を警護する、護衛部隊の隊長だった。カグヤ含む部下からの信頼は厚く、忍としての実力も、隊で最も高い。
「……何故、貴方程の方が」
わざわざ、という続きの言葉が消え去る。何かを察したのだ。
「その女を亡き者にしろという、とある方からの密命でね」
「……‼」
無機質にさらり、と発せられた一言の『とある方』という単語に、以前、自害を勧めた家臣をアマリは思い出した。長である荊祟の意図に逆らえる程の地位があり、尊巫女である自分を邪魔に思う者は限られている。
カグヤも同じだった。やはり、という思いが、吊り上がった細い眉と、噛み締めた一文字の唇に表れる。
「そこを退け。お前まで殺したくはない」
「隊長‼」
「俺も雇われの身だ。悪く思わないでくれよ」
一瞬、躊躇い怯んだが、カグヤは然りと言い放つ。
「私とて長様から命じられた……この方をお護りするという任務を放棄など……出来ません。己の命など案じては恩義に反し……くノ一の名にも恥じます」
「カグヤ、さん……」
彼女の崇高な覚悟を改めて切に感じ、アマリは息をのんだ。
「なら、俺と闘うか? お前の力では勝てないのは解ってるだろう。……せめて、二人揃って楽に彼の世に送ってやる。大人しくしてろ」
「……‼」
絶望と悔恨の余り、カグヤは眼孔を見開く。遂に、ここで命尽きるのか……と、アマリは諦めの域に入った。
どうせ、一度はあの夜に失うはずだった命だ。こんな厄介な自分に優しくしてくれて、沢山の喜び、初めて覚えた甘い温もりをくれた人達だけは、せめて守りたいと思った。
「――カグヤさん、今までありがとうございました。長様にも、宜しくお伝え願います」
そう告げた瞬間、驚くカグヤを全力で押し退け、忍装束の男に向かって、アマリは駆け出した。
「アマリさまぁ――‼」
カグヤの絶叫が響き渡った次の瞬間、頭上から漆黒の塊が落下して来た。アマリと隊長の間に割って降りた塊は、颯爽と着地したが、衝撃で畳がミシミシ、と鳴る。重みある声音が、其々の耳に入った。
「何事だ。騒々しい」
刀を抜き、戦闘態勢に入った荊祟だった。黄金の眼光を放ち、辺りを凍てつかせる闘気を纏った身体で、庇うようにアマリを後方に追いやる。黎玄がカグヤの近くまで飛んで来た。
「荊祟、様……」
理由のわからない高鳴る胸元を静めながら、アマリは漆黒の背中に向かって名を呼ぶ。命の危機が救われた事以上に、彼が『自分の所に来てくれた事』に何よりも安堵し、『うれしい』と思ったのは、確かだった。




