#3 イワカンって、なんだ
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―――一体何分の間そうしていただろうか。
気がつくと、目蓋越しに朝の零れるような日差しを感じた。
…今度こそ、夢から覚めたんだ。そう信じて目を開けると、期待を裏切ることなく、見慣れたクリーム色の天井が目に入ってきた。
あれから意識が落ちた記憶は無い。あるいは自分でも気がつかないうちに眠ってしまったのかもしれないが、それは全くどうでもいい話だった。
自分の世界が戻ってきたんだから、そんな些細なことは気にするべきではない。
自分は自分のままで居られる、それだけで儲けものだ。
体を起こすと、眼球の奥底に刺すような痛みを感じた。思わず頭を抱えて左右に振る。それっきり、頭痛はしなくなった。そうだ、それでいい。
俺には霧摘瞳という俺の日常があるのだから。
ベッドから這いずる様に出た後、寝巻きとして着ていたジャージとTシャツを脱ぎ捨てる。我が家のしきたりとして、学校のある朝、居間で食事をする際には必ず、制服を着用しなければならなかった。
きちんと糊の利いたYシャツはあまり好きではなかったが、母はきちんとした性格で、週末になると必ず自分で洗濯物を新品同様にするのだった。母の実家がクリーニング経営店だったこともあるのだが、まあ、その点は生まれる前の事を恨んでも仕様がない、というものだ。毎週月曜になると、この独特の微かな匂いに憂鬱にさせられる。
…週の始まりを嫌でも実感させられるのは、学校に着いてからでいいのに。
嘆いても何も変わらない。何より自分は、中学生のときからこの匂いに慣れきってしまっている。憂鬱は既に習慣化し、月曜日は糊の香りがしないと月曜日とは呼べない、というひどく滑稽な体になってしまった。
今日もいつもと変わらない一日、日常に飲まれていく。
もちろんそれは学生の自分にとって当たり前のことだし、それはおおよそ、卒業までの日々まで変わらないはずだ。
しかし今日の俺は、そんな日々が今日を境に容易く瓦解してしまうような、そんな錯覚に捕らわれていた。
ひどく、夢身が悪かった所為だろう。
日常の崩壊を望まない俺にとって、その錯覚は恐れるものでしかなかった。
…当たり前の世界が壊れてしまうなんて、迷惑のほかのなんでもない。
これ以上無駄な思考は止めよう。
そうやって脳の不安に終止符を打ち、自分の部屋を後にする。
Yシャツの香りは、いつもどおりの澱粉の香りだった。
居間に下りると、まずテーブルに置かれた朝ごはんに目がついた。
普段どおりならば、俺が起きてきたことを確認されてから器に注がれる朝食。しかし今日に限っては、既に注がれた食器の上にはラップがかけてあり、横にメモ程度の置手紙があった。
可愛らしいピンク色のメモ用紙には、「遅刻(暫定)」と書かれてある。
壁に掛けられた時計を見ると、そのデジタルディスプレイには10時半を告げる表記。
どうやら、悪夢というやつは遅刻までも促してしまったらしい。
とことんタチの悪い冗談だった。
家には、恐らく自分以外には誰も居ない。朝早く出勤する父はまだしも、母は既に趣味の園芸教室に向かった後らしかった。
冷えた朝食を無言でかき込む。味噌汁は冷えてしまうとものすごく味気ないものになってしまうようだ。それでも寝坊した自は何も言える立場ではない。まず、文句を言う相手が見つからないだから、どうしようもない。
流し台に食器を放り込んだ(と言っても、きちんと洗った上でのことだが)後、やることも無いのでテレビを点けてみる。もうこの時点での遅刻は暫定ではなく確定事項になってしまった。いまさら足掻いてもどこかの能力者のように時間を巻き戻せることは出来ない。それならば、とことん遅れてやるか、サボってしまうかのどちらかだ、と俺は開き直った。
それなりに大きい液晶には、普段の朝のニュースとはまた違った印象のニュース番組を放映していた。どちらかといえば、家事を一通り終えた奥様向けの情報番組。朝のNHKニュースのような簡潔なものではなく、日常の疑問や難しい単語などの説明を取り入れた方式の番組だった。
それなりに有名なニュースキャスターが表情豊かに日々の出来事を解説していく。
ふと目に止まったのは、物騒なキャッチコピーを画面上に載せて説明する彼女の姿。
「連続殺人犯の謎の死」というレッテルの元、不安げにニュースキャスターと出演者による会話が始められていた。
「昨夜未明、都内の公園でその存在が市民を脅かしていた連続殺人事件の容疑者、指名手配中の男が何者かによって殺害される、という事件が起きました。男の遺体は激しく損傷しており、また周囲に争った形跡があることから、警察は犯人は刃物のような凶器で男と争った際、誤って胸を刺して殺害したとみて、捜査を進めています―――」
何かがおかしい。そう、漠然と思った。
おかしい点は全く無い。しかし、自分の中で何かが違うと誰かが訴えている。
いくら考えても、不自然な点はない。ただ単に、犯人の餌食に掛かったのが凶悪犯罪者だっただけだ。今のご時世、殺人自体はそう珍しいことではないだろう。ニュースになってないだけで、今この瞬間にも誰かが死んでいるかもしれないのだから。
この世で起きている殺人事件の被害者は、「事件」として報道されている人数の四倍、になるらしい。そうアメリカの学者さんが言っていたような覚えがある。
大抵は行方不明者、身寄りの居ないホームレス、勘当された若者など、あまり事件自体が発覚されにくい人間がその犠牲となる。死体は隠匿され、人知れず腐敗していく。山にハイキングに来た登山客が屍を誤って踏んでしまうこともあったらしい。日本は平和だと思われがちだが、実際には知らないだけで、死なんてそこら辺に転がっているものではないだろうか。そう考えると、真に平和な場所など無いのかもしれない。
画面では引き続き、解説者による詳しい説明が行われている。俺はその初老の男性の発する声に耳が離せなくなっていた。
「今回の特徴的な点は、被害者が巷を騒がせていた連続殺人事件の犯人、という点です。被害者は先月から定期的に繰り返されている通り魔事件の容疑者であり、2週間ほど前から行方不明となっていましたが、昨夜遺体で発見されたということですね」
「その遺体について不審な点があったということですが、それはどういった点なんでしょうか?」
「はい、遺体はかなり損傷が激しく、DNA検査を行って初めて被害者本人だと確認できたそうです。また直接的な死因が、外傷によるものではなく血液を大量に失うことによるショック死だったということが、解剖の結果確認されました。しかし不審な点は、現場にはそれほど血液が発見されなかったんです。これらの点から検証すると、何処か別の場所で被害者を殺害した後、わざわざ都内の公園まで運んできたことになります」
「なるほど、運搬する理由がわからない上に、何故遺体を隠そうとせず、公園という場所を選んだのか、そこも気になるポイントですね」
「そういうことです。…しかし、本当に物騒な世の中になりましたね。皆さんも夜間の外出には気をつけて、なるべく人通りの少ない道は避けるように注意してください―――」
先程まで一字一句注意して聞いていたはずなのに、いざ終わってしまうとテレビの音など、全く耳に入ってこなくなった。
都内の公園で見つかった死体は、連続殺人の犯人のもの。激しい体の損傷、著しく失われた血液。
まんまるな月、切り裂かれた屍、音の無い空間、光の消えた公園。骸の腕に喰いついた、キレイ な―――
キレイな、…何だ?
自分は、何を考えている?
ただの殺人事件のヴィジョンに、自分は何を妄想している?
おおよそ現実離れした光景に、別れを告げる。
俺は、相当疲れているようだった。全て夢の所為にしたかった。きっと何かが俺に取り憑いて、根こそぎ思考能力を奪ってしまったに違いない。たまにはこんな日もあるさ、と笑い飛ばせない自分が恨めしかった。
気になるニュースの内容。自分には関係の無いことだと思いつつも、つい無意識のうちに場所を確認しているあたり、俺は野次馬根性だけは一人前らしい。
画面に映っていた風景は、見慣れた町外れの公園。学校からさほど遠くもなく、都合の悪いことに寄り道にはうってつけだった。
「……馬鹿らしい」
俺は、あほらしい計画を討ち捨て、学校へ行くべく準備をした。
日常の象徴ともいえる、つまらない生活へ。