のじゃロリ、第一の問題解決
悪気がなかったと言えば嘘になる。一向に話を聞かない彼女に腹を立て、思い切り殴ってしまったことは事実だ。
それ自体を悪いことだとは思わないし、元はと言えば向こうから襲ってきたのだから、自業自得だろう。
だが、それはそれとして……。
「うっく……ひっく……い、痛いにゃぁっ……」
……猫耳を生やした女性が目の前で泣いているのを見ると、凄まじい『罪悪感』に苛まれてしまう。
後頭部を殴り付けた結果地面にめり込んでしまった彼女を救出し、介抱すること一〇数分。先ほどまでの威勢はどこに行ったのやら、泣き出してしまった彼女は落ち着く様子を見せない。
「……のぅ」
「痛いにゃぁっ……!」
「いい加減泣き止まんかっ!」
泣き止む気配すら見せない彼女の頭に、思わず軽い拳骨を落としてしまった。隆盛たちはまだ戻ってきていない。周囲に人の気配はないし、誰にも見られていないことだけが救いだ。
「ひぐっ……何で、そんな酷いことするにゃ……」
「お主が話を聞かんからじゃろうが……対話で済んでいれば、手が出ることもなかった」
「だ、だって、お前が仙力ダダ漏れにさせてうろついてるからっ……喧嘩売りにきたのかと思ってっ……!」
『ビシッ』という音が聞こえそうなほど、物凄い勢いで指を差してくる。
それよりも、この人、こんな喋り方だっただろうか。少なくとも、泣き出す前はこんな猫のような喋り方をする人ではなかったはずだ。
思わず、ため息が出る。仙力とやらが何なのかが分からないと言っているのに、彼女が納得してくれないからだ。
「……お主、名は?」
そう問いかけると、彼女は嫌悪感を露わにした。
「な、なんでそんなこと聞くのにゃ……?」
「いいから答えるのじゃよ」
そんなことを気にもせず、睨み付けると、一瞬だけ彼女の肩が震え、渋々と口を開く。
「あ、天音……宵山天音にゃ……」
「そうか。天音よ、そもそもその仙力とか『纏衣』とかいう力はなんなのじゃ。わしにはさっぱり分からんのじゃが」
天音、と名乗った彼女は、僕の言葉に暫く『ぽかーん』と口と目を開いたまま放心していた。
そして、何度も同じ言葉を繰り返す僕が嘘を吐いていないと理解したのか、今度は驚きで目を見開いていた。
「……お前、もしかして本気で言ってるのかにゃっ……?」
「本気で言っておるのじゃが……?」
そもそも、仙力だとか纏衣だとかいう言葉は一般的な言葉ではないというのが僕の認識だ。
恐らくは、天音たちのような『特殊』な人間のみが用いる言葉。そして、僕はその特殊な人間には含まれない。
いや、含まれないと言えば誤りになる。実際には、『含まれていなかった』と答える方が正しい。少なくとも、二日前までは。
返事を聞いた天音は、驚きに加え困惑した表情を見せた。
「じゃ、じゃあ、何で纏衣を解放してるのにゃ?」
「知らぬ。朝目覚めたらこうなっておった」
纏衣というのが何を指し示すのかは分からないが、この姿になったのは昨日なので、昨日の朝からと答えて間違いはないだろう。
「あ、朝とは……いつのことにゃ?」
「昨日の朝じゃ。それがどうした」
「まさか、昨日の朝から纏衣……耳や尻尾を出したままなのかにゃ……?」
「そうじゃが」
そう答えると、天音はこちらから距離を取るように後退りした。
何が何だかよく分からないが……どうやら、纏衣というのは耳や尻尾を出したこの状態のことを呼称する言葉らしい。先ほど天音が叫んだ『纏衣解放』という言葉で、猫の特徴が発現したのはそのためだ。
何故だか少し離れた天音は……これまた何故だか、青ざめた顔で口を開く。
「い、一体どれだけ仙力があればそんな長時間の解放が出来るのにゃっ……!? あ、あり得ないにゃっ……!!」
「じゃから、わしにも分かるようにと言っておるのに……」
纏衣というものが何なのかは理解したものの、肝心の『仙力』というものが何なのかはいまだ不明。天音はどうにも、一々反応が大袈裟すぎて話を進めない傾向にあるようだ。
話の逸れ始めを感じた僕は、わざとらしく咳払いをしてみせた。何度か痛い思いをしているせいか、天音は話を途中で区切り、同じように咳払いをして本題に入る。
「……一旦、お前が仙力を知らないという仮定で話を進めるのにゃ」
「仮定ではなく事実じゃが、構わん」
そう言って、彼女は自身の胸に手を当てた。
「こう、集中するとこの辺りに力の溜まる場所があるのが分かるかにゃ?」
「力の溜まる場所……?」
彼女に倣い、僕もまた、胸に手を当てた。
それは丁度、あの祠で痛みを覚えたあの場所だった。そこに意識を集中させれば、確かに、人間本来の生命エネルギーとは別に、全く質の異なる不思議な力を感じた。
だが、これが彼女の言うものと同様のものなのかどうかは分からない。あくまでも、そこに何か別の力を感じる、というだけの話だ。
「……うむ、なんとなくじゃが」
「うんにゃ、そこにあるのが私たちの力の源、『仙力』にゃ。詳しい話はまた後でするがにゃ」
なるほど。この異質な力こそが、仙力と呼ばれるものなのか。
「そして、纏衣の解放というのは、この仙力を全身に行き渡らせて、肉体を変化させる術を言うのにゃ」
「ほう」
曰く、仙力の溜まる場所を心臓だとすれば、纏衣状態はまさしく血液が全身に行き渡っている状態のことを指すらしい。
「だから、これを解くには、全身への仙力の供給を止めればいいのにゃ。胸の辺りから力が流出するのを防ぐイメージだにゃ」
胸の辺りにある仙力を、そのままそこに留め、現在全身に行き渡っている仙力は霧散させる。
天音は胸に手を当てたまま目を閉じ、口を噤んでしまう。そして暫くすると……彼女の頭から生えていた耳は消え、尻尾も同様に消えてしまった。
「こうすれば、纏衣状態は解除される。分かるか?」
気付けば、口調すらも元に戻っていた、纏衣状態の時は、そういった部分も変異するようだ。
「力の流出を、防ぐ……」
彼女と同じように、目を瞑った。
纏衣状態が全身に血を行き渡らせている状況なのだとしたら……それを止める方法は一つ。心臓を止めることだ。
つまり、胸にある仙力の出所を心臓だとして、その動きを止めてしまえば。
すぅっと、全身から一気に力が抜けるような感覚がした。頭と下半身が軽くなり、代わりに側頭部の辺りに無くなっていたはずの感覚が現れた。
ぺたぺたと、体を触る。耳や尻尾は消えた。人間としての耳の部位も、どういう理屈か戻ってきた。これで元通りだ。
「も、戻ったのじゃっ! ……いや戻っとらんっっ!?」
一瞬、元に戻ったと思ったが……違う、そもそも僕は男だ。狐のような特徴は消えたが、姿はまだ幼い少女のままである。
「妙なことを言うな。纏衣状態を代表する耳や尻尾は消えただろう?」
天音は地面にめり込んだ影響でスーツについていた砂埃などを払いながら立ち上がっていた。
「違うのじゃ! わしはそもそも男なのじゃがっ!?」
「男? 纏衣解放では口調やほんの少し見た目が変化するだけで、性別が変わったり体格そのものから変わるなんてことはあり得ないんだが」
訝しんだ表情でこちらを見つめる天音。彼女の目には、僕は頭のおかしいことを言っている奇人のように映っているのかもしれない。
そうは言っても、僕は元男なのである。あり得ないと言われても実例がここにいるのだ。
……と、丁度僕らが纏衣状態を解除したときだった。
「樹っ!」
後方から、隆盛の声がした。どうやら、心配になって戻ってきたようだ。
「樹ちゃ……ってもふもふが無くなってるっっ!?」
椿さんは……平常運転だ。
隆盛は僕のもとへ駆け寄ってくると、そのまま天音との間に壁になるように立ち塞がった。先ほどの戦闘を見ていないから、自分が盾になろうとしているのだろう。
因みに椿さんは、もふもふ成分がなくなったことを憐れんで、直接僕本体に抱きついている。
「無事か、樹」
「う、うむ……まあ、なんとかの」
親の仇でも前にしたかのように、天音を睨み付ける隆盛。
天音も天音で、そんな隆盛に敵対心を剥き出しにしている。このままでは、折角収まったいざこざが再び発生してしまう。
そんな二人の間に急ぎ割って入り、事情を知らない隆盛に言う。
「待て、隆盛。こやつからは、まだ聞かねばならないことがある。祠が見つからん以上、そちらの探索は中断じゃ」
隆盛はどうにも不服なようで、眉を顰めた。
「何……? 正気か、樹。危険な女じゃないのか?」
「いや、わしより弱い。なんとでもなる」
「酷い言いようだな……」
背後にいた天音が勝手に傷付いているが、この際それは些細な問題だ。
問題は……天音が、僕の体について、僕よりも詳しい情報を持っているということ。故に、完全に敵対してしまう前に、その情報を引き出さなければならない。
「この先の川で、ゆっくり話を聞くのじゃよ。それでよいな、天音」
「私は……お前に任せよう」
先ほどの拳骨がかなり響いたようだ。随分と弱気になってしまった天音を見て、隆盛は簡単に折れてくれた。
「……まあ、樹がそう言うなら」
「ふむ、ならば決定じゃの。あの川でなにか食べながら話そうではないか」
そうと決まれば、祠探しは中断、思わぬ形で耳と尻尾を隠すことは出来たのだから、これからは行動範囲も広がる。こちらは、村で情報を集めてからの方がいいだろう。
まずは、車へ戻ろう。天音が逃げ出さないうちに情報を引き出さねば。