それはある日の二人の様子
「なあ、雪さん」
「はい?」
ある日のこと。約束通りに戦闘訓練を受けていた隆盛は、滝のような汗を流しながら水を飲み、休憩がてらに雪の名を呼んだ。
「雪さんって、本当に仙継士じゃないんですか?」
これまで雪の動きを何度か目にしてきた隆盛であったが、実際に訓練を受けて実感した。
……この人の身体能力は、人間のそれではない。どちらかと言うと、仙継士が纏衣を解放した時のそれに近い。
屋敷の屋根に軽々と飛び移り、拳を振るえば岩をも崩す。とても、人間業とは思えないことばかりだった。
雪は隆盛の言葉に目を丸くして、首を縦に振る。
「ええ。私はただの人間ですよ」
「人間とは思えないような動きしてるんですけど……」
「慣れ、というやつです。隆盛様も、得意なことであれば他の人よりも上手く動けるでしょう? それです」
「それです、と言われましても」
雪のそれは慣れだとか、そんな次元の話ではない。慣れただけで岩石を破壊できるなら、この世界はとっくに滅んでいるだろう。人類というものを過大評価しすぎである。
「あ、そうだ。慣れっていえば、もう一つ気になってたんですけど」
「何でしょう?」
汗一つ流さず、表情も変えないまま水を飲む雪に、隆盛は『あり得ない』といった様子で質問をした。
「雪さんって、宵山家に仕えて長いんですか?」
「そうですね……初めてこの家で雑務をこなしたのは、もう一〇年以上前のことになります」
「へえ……先祖代々、この家に仕えてるとか?」
「まあ、そんなところです。どうしてそんなことを?」
「いや、茜音さんって、雪さんのこと『せっちゃん』って呼ぶじゃないですか。他の黒衣の人と違って、随分信頼されてるんだなって」
隆盛にとってそれは、単なる好奇心からくる質問であった。雪はまた、一切表情も変えず、淡々と話をしてくれるのだろうと、そう思っていた。
だが、実際には違った。隆盛の言葉を聞いた彼女は、酷く驚き、悲しげな表情で俯いたのだ。
「そう、ですね……」
告げる言葉にも、力がこもっていない。いつも気丈に振る舞っていた雪のか弱い姿に、隆盛は顔を青くし、彼女の前で額を地面に擦り付けた。
「すっ、すみませんっ!! 俺、また何か聞いちゃいけないことをっ……!?」
「いえ……構いません。隆盛様が気に病むほどのことではないですから」
にこりと笑ってみせる雪。しかし、どうにも弱っている様子だ。
先日の妹の件といい、この件といい……彼女には、何か凄惨な過去があるのかもしれない。隆盛は頭を上げ、勢いよく立ち上がると、今度は礼をした。
「……雪さん、訓練の続き、お願いします」
彼の言葉に、雪は驚いたようだった。何せ、訓練を始めてまだ間もなく、また、戦闘の経験などない彼が、そんなことを言い出したから。
雪の訓練は、正直に言って、かなり厳しいものだ。隆盛は既に、服で隠れた全身に痣を作っているし、痛みも相応に伴っているだろう。水樹を守るためだとはいえ、その意欲は異常であった。
「……隆盛様は経験が浅いですし、もう少し休憩された方がよろしいかと。効率も悪くなりますよ」
「いえ、動けます。俺、たった今決めました」
「決めた?」
雪は首を傾げ、そして、隆盛は告げた。
「……雪さんが何を抱えてるのか、俺には分からないです。でも、きっと、俺が想像もできないような悲しいことがあったんですよね」
隆盛はそう言って再び頭を上げ、自身の胸を拳で殴りつけた。
「だから、俺、いつか雪さんより強くなってみせます。そんで、雪さんが抱えてるもの、半分でも支えてみせます。駄目ですか、雪さん」
……その言葉に、雪はここ数年で一番の驚きを見せた。別人と見間違うほど目を丸くして、ぽかりと、口は開いて。
「……それは、プロポーズ、でしょうか?」
「あっ、えっ!? ほんとだっ……いやっ、そうではなくっ……!!」
慌てふためく隆盛に、雪は再び平静を取り戻した。隆盛の言葉を何度も胸の内で繰り返し唱え、そして、ほんの少し、頬を赤らめた。
「……冗談です。楽しみにしてますね、隆盛様」
にこりと、誰にも見せたことのないような笑みを浮かべる雪。先ほどの元気のない笑顔とは違って、今度は、心の底からの笑顔に思えた。
隆盛は、そんな彼女の笑顔に、心が打たれた。今まで感じたことのない感情だ。不思議と、胸が高鳴って止まらない。
「……はいっ!」
それを誤魔化すように、元気よく返事をする隆盛。それに満足したのか、雪はさらに口角を吊り上げる。
「では、もっと厳しくいきましょうか。私を超えると言うのであれば、この程度の訓練では生ぬるいですから」
「……あ、いや。少し、段階は踏んでもらえるとありがたいんですけど」
先ほどの胸の高鳴りは何だったのか。二人はそれぞれ、もやもやと残る気持ちの悪い……けれど、不快ではない感情を胸に抱いたまま、訓練を再開した。
——因みに、後で合流した水樹曰く、訓練終わりの隆盛は別人のように痩せ細っていたのだとか。
 




