篠宮水樹の裏切り
——時は少し遡り、旧漆原邸での戦闘が行われた日の夜。宵山家の屋敷では、当事者である黒霧雲源も交えて会議が行われていた。議題は勿論、最大戦力である『篠宮水樹の損失』について。
「くそっ、一ノ瀬光之助め……奴に洗脳などという奥の手があったとは……!」
天音が机を力の限り叩き、カップが揺れる。誰が見ても分かるほどに、怒りを露わにしていた。
そんな彼女を落ち着かせるように、同席していた隆盛は口を開く。
「落ち着け、宵山さん。何も、まだ水樹が裏切ったとは限らないんだろ?」
あの場にいなかった隆盛は、屋敷に戻ってきた天音らの話を聞き、概ねの状況を把握している。
厄介だった漆原骸久が死んだこと。
三人の仙継士を生捕りにしたこと。
一ノ瀬光之助が何らかの力を用い、篠宮水樹を洗脳したこと。
それにより、篠宮水樹が三枝家と敵対するようになってしまったこと。
隆盛はそれを、『何らかの事情があって、水樹は別行動をしている』のだと捉えた。実際のところはまさしく、彼の想像している通りなのだが、他の者らは違った。絶対的な権力を持つ三枝家に縛られない隆盛だからこそ、『三枝家に攻撃を仕掛けた』という事実を大した問題だと捉えなかったのだろう。
隆盛の言葉に対し反論を述べたのは、黒霧雲源であった。
「いや……篠宮殿は三枝家の使いに対して、明確な敵意を抱いていた。一ノ瀬の術にはまったか、自らの意思で裏切ったのかは分からんが、な」
そして、彼は続けてこう告げた。
「……どうする。正直、ここにいる全員が束になってかかれば、篠宮殿を討ち倒すことは可能だと思うのだが」
その言葉に、隆盛は思わず立ち上がった。
「討ち倒すって……正気かっ!? あんたら、水樹に助けられてきたんじゃないのかよっ!」
「それとこれとは別の話だ、隆盛。漆原骸久は死に、残る三人を捕縛することはできた。だが、主犯である一ノ瀬の行方は知れないままだ。いずれまた、攻め込んでくるだろう」
「そうね。その時は、必ず、あの子も攻めてくるわ。一ノ瀬光之助の保有している戦力は分からないけれど、あの子以上に強力な仙継士はいないでしょう」
天音と茜音は共に、黒霧雲源の意見に同調するように意見を述べる。つまり彼女らは、篠宮水樹という最大戦力が敵に利用されるというのならば、いっそ殺してしまおうと、そう言っているのだ。
馬鹿げている。隆盛はすぐさま、それが異常なことだと気がついた。普段なら、真っ先に水樹の身を案じるはずの宵山家の人間たちが、揃いも揃って水樹を『殺すべき』だと意見している。これを異常だと言わずして、何と言うのか。
「そうだ、雪さん……あなたはどう思うんですか! 水樹が本当に裏切ったと!?」
皆へのお茶や食事の配膳をしていた雪に意見を求める隆盛。しかし、いつもよりも冷酷で、それでいて無慈悲な目をする雪を見て、彼の表情が歪む。
「……私はあくまで、宵山家に仕える身ですので」
その瞬間、隆盛は悟った。この場に、水樹の味方は誰一人として存在しないのだと。それこそ、操られているのは水樹ではなく、『この場にいる人間』なのではないかと。
「……どうかしてるよ、あんたら……水樹がわけもなく、俺たちを裏切るはずがないだろ……見損なったぜっ……!」
隆盛は鞄を手に取り、急ぎ足で部屋から立ち去った。残された者たちはため息をこぼすか、無言を貫くか。或いは、目を合わせて頷く者もいた。
「……せっちゃん。彼をお見送りしてあげなさい」
「……承知しました」
茜音の指示を受け、雪はその場から姿を消した。隆盛がいなくなると、天音は途端に頭を抱え、大きなため息をこぼす。
「水樹、何故だ……何故裏切った……」
そんな彼女の足元で、一匹の黒猫が鳴き声をあげた。
「……にゃぁん」
「……そうか。すまないな、ヨル。晩御飯がまだだったな。ほら、おいで」
天音は立ち上がって、ヨルの食事を用意するも……ヨルは、その場から動かなかった。
「……ヨル?」
特に天音と雪のことを気に入っているヨルは、いつもは食事時でなくとも二人には擦り寄ってくる。
しかし、この時のヨルは、天音には近寄ろうともせず、代わりに茜音の足元へ擦り寄った。
「あらあら、どうしたのかしら。いつもは警戒して近寄ってこないのに」
茜音が喉元を撫でると、ヨルはごろごろと喉を鳴らしてその場に寝転んだ。
「お腹を空かせているのでしょう。ほら、ヨル、おいで」
天音が何度、名を呼ぼうとも、ヨルは決して振り向かず、茜音に構ってもらおうと甘えていた。茜音は茜音で、普段なら堪能できないヨルの毛並みに満足しているようだ。
「いいわよ。私があげておくわ。それより、あの子のことだけど……雲源殿。恐らく、討ち取ることは難しいわよ」
「……やはり、そう思うか?」
「ええ。あの子の力は未知数だから。まあ……生捕り、なら可能でしょうけど」
にやりと、悪い笑みを浮かべる茜音。天音ですら見たことがないような悪人面に、その場にいた全員が顔を引き攣らせた。
「どちらにせよ、無力化することに変わりはない。心苦しいが……俺も全力を尽くそう」
「ああ……すまないが助力を頼む、雲源殿」
天音と黒霧雲源は固い握手を交わし、会議はお開きとなった。迫り来る決戦の日に備えて、両陣営共に、張り詰めた空気を纏わせながら、その日は帰るべき場所へと帰っていった。
 




