のじゃロリと惨劇の理由
「ただいま」
青年は、いつもと同じように家の扉を開いた。ただそれだけで、絶望するには十分だった。
——血のような臭いがする。父か祖父が、また研究で怪我でもしたのだろうか。いや、それにしては、不自然なほど、血の臭いが濃い。
「——? 皆?」
普段は返事をするはずの家族が、誰も応えない。不審に思った青年はリビングの扉を開け……そして、その場にへたり込んだ。
「と、父さん、母さん……光司っ……?」
父が、その手に持った包丁で、自身の喉をかき切って白目を剥いている。母は、頭部が首から離れ、弟は首を吊って死んでいた。
とても現実とは思えない光景に、声にもならないような呻き声が、青年の喉から漏れる。これはきっと悪い夢だと自分に言い聞かせ、何度も瞬きをして——そして、また現実に戻される。
「じ、爺ちゃんはっ……爺ちゃんっ!!」
一階にある一部屋は、青年の祖父の自室兼研究部屋となっている。彼は目の前に広がる惨状から、少しでも早く目を逸らしたくて、尊敬する祖父の部屋へと駆け込んだ。
「爺ちゃんっ、皆がっ……!!」
勢い良く扉を押し開き、中に入る。いつもならここで、静かにしろという怒声が飛んでくるはずだ。
だが、しかし。そこにいたのは、割れたガラス片を自分の胸元に突き立てる祖父と、奇妙な白装束を着た人物であった。
「——僕が生き残れたのは、奇跡に近い。『自害しろ』と命令されたものの、それが効かなかった。咄嗟に、近くにあった椅子で奴を殴りつけて、奴が落としたこの手帳だけを持って逃げた」
遠い過去の話をするその瞳に、強い憎しみが宿っている。どこかで見たことのある目だ。たとえば、僕を見つめる黒霧風雅だったりとか。それだけ、一ノ瀬の憎しみは強いのだろう
「そうか……お主が三枝を狙っていたのは、そのせいか。しかし、なぜお主だけが逃げられたのじゃ?」
「あの時、家にいたのは三枝傘下の『未切』という一族の人間だ。奴が得意とするのは洗脳や催眠。だが——これも完全ではないらしい」
「と言うと?」
「この一〇年間調べて分かったことだ。奴らの能力は、相性の問題で、稀に効果が出ない人間がいる。それが僕だった」
「なるほどのぅ……」
状況を見る限り、一ノ瀬の家族はその未切という仙継士の催眠能力で狂い、自害したものと考えられる。あるいは、家族間で殺し合いをさせられたのかもしれない。
あとは、一ノ瀬光之助も同様に自害させればいい。はたから見れば、一家心中事件が起きたように映る。仕上げに、家に火でも放てば完璧だ。結果的に、そうはならなかったが。
しかし——未切、か。確か、撤退してくる前に、一ノ瀬が言っていたのもその名前だった。
「……待て、洗脳や催眠、と言ったか?」
そこで、ある可能性に至った。豹変したように僕を狙う天音たち。光の宿らない目。まるで、誰かに操られているような様子だった彼女たち。
僕の問いに、一ノ瀬は力強く頷いた。やはり、そうか。
「君の仲間の様子がおかしかったのは、未切の力だろう。どうやら、あの場にいたらしい」
「そうか。空にいたもう一人の白装束……奴だったのかもしれんな」
となれば、その未切という一族の仙継士を倒せば、天音たちを説得する機会は生まれるということか。彼女たちとはもう分かり合えないのかと思っていたけれど、どうやら、まだ絶望するには早いようだ。
しかし……そうなると、気になることがあるな。
「そもそも……なぜ三枝は一ノ瀬家を狙ったのじゃ? お主らは、仙継士の一族でもない、ただの人間じゃろ?」
一番の疑問だ。三枝が、傘下の仙継士を動かしてまで、一ノ瀬家を惨殺した理由。それが、僕には分からなかった。
一ノ瀬は、僕の言葉を聞き、『やはりそこが気になるか』といった様子で、僕に手渡した手帳を指差した。
「その手帳……最後の方まで読んでみるといい」
「最後?」
言われるがまま手帳を捲り、残り数ページ……僕には、そのラスト数ページが読めなかった。
当然だ。ページが破り取られていたのだから。
「それは、祖父が長年追いかけていた玉御月命の情報をまとめた手帳だ。その最後の数ページが破られている……そして、その手帳は一度、祖父以外の手に渡っている」
「……未切か」
先ほど、彼はこう言っていた。未切に自害を命じられた後、咄嗟に椅子で殴りつけ、奴が落とした手帳を拾って逃げたと。
となれば、必然、手帳のページを破り取ったのは未切だということになる。だが、なぜそんな回りくどいことを?
「そう。未切は祖父に力を使って殺した後、その手帳を手にしている。そして、最後のページを破り取った」
「なぜじゃ。手帳ごと燃やしたほうが早いじゃろ」
聞けば、一ノ瀬邸はのちに火を付けられ、死体ごと全焼してしまったという。手帳だって、その時一緒に燃えるはずだ。
一ノ瀬は僕の言葉に、首を横に振る。それではいけない、という意味だろう。
「万が一にも情報が残ることを恐れたんだ。だから、『何か』が書かれたそのページだけを破り取って、持ち帰ろうとしたのさ。裏を返せば——それほど、誰かに見られたくない何かが書かれていた、ってことだ」
燃やすのでは、たとえ限りなくゼロに近い可能性だとしても、燃えかすやページの断片が残ってしまう可能性がある。だからこそ、奴らは破り取った。確実に、誰の目にも触れないように。
だが、一体……一学者が記した手帳に、何が記されていたというのか。あの三枝家が抹消しなければならないほどの何かが書かれていたのか?
「そこまでして、奴らはなにを隠したかったのじゃ……?」
その問いに、一ノ瀬は迷うことなく答えた。
「そんなもの、決まっているだろう? その手帳は、祖父が玉御月命について書き記したものだ。ならば当然、破り取られたページにも、玉御月命のことが書かれていたはず」
「……っ!」
「断言しよう、篠宮水樹。玉御月命……御狐様は、三枝と何か関わりがある。奴らが一般人を殺してまで隠そうとするくらい、重要な何かだ」
言われてみれば、当然のことだった。玉御月命の情報をまとめた手帳のページが破られていたのだから、奴らが持ち去った情報は、当然玉御月命に関するものだ。
一ノ瀬の瞳には、強い意志が宿っている。その瞳は、真っ直ぐと僕を見つめていた。
玉御月命の魂、今、僕の中にある。そうか。僕は最初から、この事件に関わっていたのか。
「……どうやら、わしも無関係ではないようじゃな」
「ああ。僕と関わってしまった以上、ここで逃げても、奴らは君を狙うだろう。奴らを倒す以外、僕たちに生き延びる道はないんだ。その点に関しては……巻き込んで申し訳ないと思っている」
「いや、よい。その様子じゃと、いずれは関わる運命にあっただろうしの」
深々と頭を下げる一ノ瀬。どうやら、巻き込んだという自覚はあるらしい。散々僕の命を狙っていた相手だが……まあ、事情が事情だ。同情する気持ちもあるし、怪我人が少し出た程度だ。今更、そのことについてとやかく言うつもりもない。
だが……これではっきりした。僕らはやはり、三枝を倒さなければならない。使命感や復讐のために——そして、僕たち自身が生き残るために。
 




