のじゃロリと彼の逃走劇
——たとえるならば、一切の明かりがないエレベーターに、ずっと揺られ続けているような感覚。それが、影の中の世界を移動している時に抱いた感想だった。
時折、急に揺れが強くなったり、今度は弱くなったり。どこに連れていかれるのかも分からないまま、僕は影の流れに身を委ねた。
そして、世界に光が現れた。
「……君も来たか」
「……一ノ瀬、光之助?」
目の前には、一ノ瀬が座っていた。ほぼ同時に引き摺り込まれたはずだが、どうやら、彼の方が先に到着していたらしい。
筋肉痛のような痛みに襲われる四肢に鞭打って起き上がると、そこは、見覚えのない建物の内部のようだった。とても、誰かが住んでいるとは思えないほどぼろぼろで……有り体に言えば、廃屋だ。
「ここは……お主らの拠点か?」
「いや、違う。先に少し見て回ったけど、どうやら、僕も知らないどこからしい」
服についた埃を払いながら、彼の話を聞く。纏衣はここに来るまでの間に解除されてしまったようだ。あの状態だと、体から漏れる仙力で敵に位置を知られる可能性もあるし、むしろ好都合だった。
「そうだ。篠宮水樹、携帯電話は持っているかい?」
思い出したかのように、一ノ瀬が言う。
今日は元々……一ノ瀬たちとの激戦を想定していたため、携帯は隆盛に預けてきた。恐らく、一ノ瀬の懸念は、GPSを用いた探知だろう。
「いや……壊れては困るから、家に置いてきたが……」
「ならいい。探知で居場所を知られるとまずいからね」
予想は的中していた。口ぶりから察するに、彼も所持していなかったみたいだ。
三枝家の手がどこまで及んでいるのかは分からない。だけど、少なくとも、そう簡単に見つかるような状況でないのは、幸運だ。
「ひとまず……手分けして家の中を散策しようか。食料があるかも気になる」
落ち着いて言う一ノ瀬の言葉に、僕は頷いた。ここはどこだとか、皆はどうなったのかだとか、気になることは山ほどあるけれど、今は生きて態勢を整え直すことの方が重要だ。
一ノ瀬に続いて、今にも崩れそうな扉を潜り、部屋を後にした。
それから、体感では数十分ほど経過しただろうか。一ノ瀬と分担して家の中を散策し、リビングに集合した僕たちの眼前には、節約すれば数週間は生き延びることができそうなほどの保存食があった。
「……驚いたな。こんな廃屋に、缶詰や保存食が大量に備蓄されてるなんて」
あまりにも予想外すぎる結果に、一ノ瀬でさえ驚きを隠せないでいた。正直なところ、数日分飢えを凌げる程度の食糧があれば上々と思っていたのだ。
それも、見つけた食糧の製造年月日が、家の外観とつり合っていない。もう何十年も手入れがされていないような廃屋に、去年作られた保存食が残されている。
ここに誰かが住んでいる、というよりは……誰かの『避難場所』として用意したかのような、そんな場所だ。
「……この場所、もしや、漆原骸久がお主のために用意したのではないか?」
「骸久が?」
聞き返した一ノ瀬の言葉に頷く。
「うむ。今回のような不測の事態に備えて、お主を避難させるために用意していたのかもしれん」
「……可能性はあるな。でなきゃ、こんな山奥にある、手入れもされていない廃屋に、これだけ大量の食糧が備蓄されてるはずがない」
そもそも、僕たちをここに運んだのだって漆原骸久だ。万が一のことがあった時のため、彼が事前に用意していたと見て間違いないだろう。
「……まあ、仮に違ったとしても非常事態だ。ここの主には申し訳ないが、ありがたく使わせてもらおう」
腹が減っていたのか、一ノ瀬はキッチン……の残骸の中にあった缶切りを拾うと、缶詰の蓋を開け始めた。
「お主、見た目によらず意外と図々しいのじゃな」
「言っただろう? これは非常事態なんだ。見知らぬ誰かに迷惑をかけたとしても、僕たちは生き延びなくてはならない」
無駄のない動きで缶詰の蓋を開けると、彼はそれを僕に手渡してくる。
……確かに、一ノ瀬の言う通りだ。このまま引き下がれるはずがない。皆を元に戻すまで、死ぬわけにはいかないんだ。
「……そうじゃな。わしらは生きねばならん」
「そう。そのためには、まず、食べよう」
この廃屋が誰のものなのか……そんなことは些細な問題だ。僕らは生きなくてはならない。目の前には都合良く保存食が転がっていて、暫くは攻撃を受ける心配もない。ならば……食うしかないだろう。
そうして、ある程度腹を満たした僕たちは、再び元の部屋に戻ってきた。二階且つ三方向に窓のあるこの部屋が、最も索敵に向いているためだ。いざとなれば、窓から避難することもできる。今後はこの部屋を主に使用することになるだろう。
「さて……腹拵えも済んだことだ。何から手を付けるべきか」
ぼろぼろで、何の役目も果たしていない布団を片付けながら、一ノ瀬が言った。
僕たちが、初めにやるべきこと……。
「そんなもの、一つしかないじゃろ」
僕の言葉に、彼は不思議そうにこちらを見た。
「お主の話じゃ。わしはまだ、お主の正体も、目的も、なにも聞いておらん」
「ああ、そう……僕の話、か」
一ノ瀬は怪訝そうに、眉を顰める。僕がまだ、彼のことを疑っていると思っているのだろう。
「勘違いするでない。わしはもう、お主のことを敵だとは思っとらん」
「何だって?」
そして、今度はまた別の意味で眉を顰めた。
僕は地面の埃をある程度手で払い、そこに座る。一ノ瀬の目を見つめると、彼もまた、僕に倣って座り込んだ。
「わしは、今後協力していく上で、お主のことを知っておきたいのじゃ。少しでも、な」
「……僕がこんなことを言うのもおかしな話だけど、君は突然襲ってきた僕を信用するのかい?」
「なんじゃ、いかんのか?」
一ノ瀬と漆原は、最初こそ敵対していたものの、最終的には僕との『対話』という道を選んだ。あの時話してくれたことが嘘か真か……それを確かめる術はないけれど、僕が思うに、嘘は吐いていなかったと思う。
そして、三枝家の乱入。あの白装束は、明らかに、僕を巻き込むような形で矢を放っていた。一ノ瀬たちが危険因子だとしても、普通、何の罪もない仙継士を巻き込んでまで始末しようとするだろうか?
何の根拠もない憶測だけど……三枝家には理由があったんだ。無関係の者を巻き込んだとしても、一ノ瀬たちを排除しなければならない理由が。それこそ、一ノ瀬たちの話が事実であるという裏付けではないか?
それらのことを考えると、今、信用できる可能性が高いのは一ノ瀬だ。一ノ瀬も三枝も、素性不明という点では同じだけど、対話に応じる一ノ瀬の方がはるかに信用できる。
あまりにも当然かのように僕が言うから……それがおかしかったのだろう。一ノ瀬は呆れたように、俯くように笑った。
「……悪く言うつもりはないが、君は……変わってるね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
そうして堪忍したのか、一ノ瀬は穏やかな表情で、僕を見つめた。
「……そうだね。君の言う通りだ。僕はまだ、骸久のことしか話していない。何から聞きたい?」
「うむ、そうじゃな……ではまず一つ、聞かせてほしい」
一つ目の質問。僕は、ここに来るまでずっと疑問に思っていた……心の中の突っかかりを、彼に投げかけた。
「一ノ瀬、お主——仙継士ではないな?」
彼は少し驚いたように……静かに、頷いた。




