のじゃロリとゴリラとフィジカルゴリラ
燕士莉愛は戦闘の最中、第三者から見ても明らかなほど、焦りを見せていた。その原因もまた明らかで……目の前にいる女が、あまりにも非常識な身体能力を有しているためであった。
(何なの、この女っ……!?)
三日前に彼女が戦った由花も、身体能力を強化するような能力を使用していたため、莉愛に『フィジカルゴリラ』と評されていた。しかし、目の前にいる彼女——雪は、それとは次元が違った。
「お前、何なのっ!? 本当に人間っ!?」
「ええ、人間ですよ」
五メートルほどの高さで浮遊している莉愛目掛けてジャンプし、殴りかかる雪。とても、人間の脚力とは思えないその身体能力に、莉愛は表情を歪めていた。
それもそのはず。莉愛が感知する限り、目の前にいる雪から仙力は感じられない。これほど驚異的な身体能力を発揮しているのにも関わらず、だ。
それはつまり……雪は仙継士ではないということ。雪の情報を持たない莉愛にとって、それは驚愕の事実以外の何物でもなかった。
「ただの人間が、そんな高く跳べるわけないでしょっ……!!」
「事実、跳んでいるではないですか」
鉄砕を身に付けた雪の拳を、交差した腕で受ける莉愛。直撃の瞬間、前方の空間にかかる重力負荷を増加させたおかげで、下方向への力が加わり、威力は減衰させたが……それでも、骨が軋む、不快な音が響くには十分な威力だった。
「くっ、ぁっ……!?」
「うぐっ……厄介ですねっ……」
痛みでよろける莉愛と、増加した重力で地面に激突し、膝をつく雪。しかし、雪はかすり傷を負った程度で、ゆっくりと立ち上がった。
「な、なんで立てるのよっ……纏衣状態の灼堂がやっと立ち上がれるくらいなのに……!!」
「主人が戦っている最中に休むわけにはいきませんから。それに、分かったこともあります」
相当な負荷がかかっているのにも関わらず、雪は挑発するように、莉愛を指差してみせた。
「あなた……人に対して直接仙力を使うことはできませんね」
「うっ……」
図星だったのか、莉愛は頬をひくつかせた。
「その力の効果範囲は、あくまでも空間。でなければ、最初から私にかかる重力を強めればいい話ですから」
実際のところ、雪の指摘は正しかった。莉愛の仙継士としての実力はまだそれほど高くなく、ある意味最強ともいえる重力を操る仙力を、十二分に発揮することができずにいた。
しかし、その指摘が、莉愛の背中を押してしまった。この力だけは人前では使うまいと、彼女が心に誓っていた枷を、外してしまった。
あるいは、三日前に一ノ瀬の目の前で由花と引き分けたことも原因だったのかもしれない。二度も無様な姿を見せてたまるかという、彼女の一ノ瀬に対する敬愛的な精神が、枷を外したのか。
「……何よそれ。勝ったつもりでいるわけ? 私はまだ奥の手も見せてないのに」
「……ほう」
莉愛は自身と雪の周囲にかかる力を解除し、大地に降り立つ。そして目を瞑ると、静かにこう言葉にした。
「纏衣、解放」
——すると、どうだろうか。『可愛い』を追い求めたような、女性的なファッションだった莉愛の姿は豹変。肉体は盛り上がり、筋骨隆々と。全身の体毛が伸び、それはまるでゴリラのように、野生的な姿に変貌してしまった。
「……なるほど。初めから纏衣状態にならなかった理由が分かった気がします」
冷や汗をかく雪が、ぼそりとそう呟いた。彼女も女性だ。女心は理解している。ならば、このような姿に変貌する力など使いたくはないという、莉愛の心情も理解できる。
「この姿、嫌いなんだ。醜いから。けど、お前を倒すためには……仕方ない」
変異が終わり、野太い男性のような声になってしまった莉愛はそう告げ——これまでとは比較にならないほどの速度で雪に肉薄すると、その巨大な拳を腹部に叩き付けた。
「ぐっ……!?」
あまりにも不意な一撃。雪は大きく後方へ吹き飛びながらも姿勢を整え、彼女を迎え打とうとするが、そこにもう一度、莉愛の一撃が打ち込まれる。
「かっ……!!」
空中から地面に叩き付けられ、息を切らしながら立ち上がろうとする雪。そこへ、上空から拳が降ってくる。
ごろごろと転がりながらそれを回避し、何とか立ち上がった雪へ繰り出されたのは、重々しい蹴り。雪はそれに対抗するように、同じように蹴りを繰り出した。
「無駄だ」
だが……力の差は、これまでとは比べ物にならない。ぶつかり合った脚は拮抗することもなく、雪の脚はけたたましい悲鳴をあげて、曲がってはいけない方向へと捻じ曲がった。その衝撃で宙に浮いた雪の体は、ろくな受け身も取れずに地面に激突する。
「ぅ、ぐっ……」
「脚、砕けたな。もう動けないだろう」
雪の右足は、膝から下がぺしゃんこに砕け、辛うじて肉が繋がっているような状態だった。この状態で気を失わず、戦意を剥き出しにしているのは、雪の心の強さが故だろう。
しかし、どれだけ戦意があろうと、戦えなくては意味がない。戦意とは、戦う肉体があってこそのものだ。肉体が壊れた者の抱く戦意は、ただの反抗心でしかない。
「これで終わりだ」
莉愛はそんな雪にトドメを刺そうと、拳を振り上げる。流石の彼女も死を覚悟したのだろう。目を大きく見開いて……次の瞬間、確かに、笑った。
——刹那、莉愛の背中に衝撃が走った。分厚い肉の塊を揺らす痛みが、彼女の注意を逸らしたのだ。
「なっ……!?」
思わず振り返った先にいたのは、既に戦闘を終え、再び纏衣状態になった天音であった。天音は間に合わないと判断したのか、攻撃が届くギリギリの距離から仙力を行使したのだ。
そして、この一瞬の隙が、雪に勝機をもたらした。
「……貴重なものなので、できれば使いたくはなかったのですが……長引かせると不利になりますね」
そんな雪の言葉に、莉愛の注意が再び雪に向けられる。そこにいたのは、両の足を大地につき、しっかりと踏ん張って構えている雪の姿であった。
「おまっ、脚がっ……!?」
「終わりにしましょう」
——仙具、『爆炎輪・三連』
静かに雪の言葉が響き、莉愛の腹部に三度、衝撃が訪れる。直後、衝撃を受けた部分が、激しい爆発を起こした。
体の内部から破裂するような痛み。肉体そのものが爆発してしまったかのような激痛に、莉愛はゆっくりと、けれども確実に、意識を手放してしまった。
地面に倒れ伏した時には、纏衣状態は解除され、一糸纏わぬ姿となった莉愛。彼女が確かに気絶したことを確認して、莉愛は向かってくる天音に頭を下げた。
「お手を煩わせてしまい申し訳ありません、天音様」
「いや、間に合って良かった。それより、今のは……」
「はい。もう死期が近かった爆炎輪なのですが……どうやら、完全に壊れてしまったようです」
雪がしゃがんで地面に落ちていた金属のかけらを手に取る。天音が隙を作ったその一瞬に指に嵌めた、指輪型の仙具。込められていた仙力が限界を迎えていたこともあり、ここぞという場面のために使用を控えていた、現在の宵山家が保有している中で最も強大な威力を誇る仙具だ。
「仕方ないさ。それが仙具というものだ。怪我はないか?」
「ええ。天音様のおかげで、かすり傷で済みました」
そう言った雪の右脚は、先ほどまで回復不能なまでに破壊されていたとは思えないほど、綺麗な状態であった。
天音は彼女の言葉に満足げに頷くと、水樹が向かった方角へ視線を向けた。
「そうか。なら良かった。あいつは……一人で話がしたいと言っていたからな。このまま見守ろう」




