のじゃロリと動き出す影
予期されていた襲撃は、僕たちの予想に反して行われなかった。雪さんと二人、深夜と早朝で交代しながら見張りを行い、警戒体制を敷いていたが……奴らは、影の一つも見せなかった。
漆原骸久の能力に備え、家中の電気を灯したまま、出来る限り影を作らないようにしていたものの……拍子抜けの結果だ。
てっきり、住所は既に割れているものだと思っていた。というよりも、矢光市内の一部を領地としていることは仙継士間では周知の事実なのだから、攻め込んでくるものとばかり思っていたのだが……結果は、静寂という二文字がよく似合う夜だった。
「水樹様」
時刻は午前五時過ぎ。まだ随分と早い時間だが、深夜帯の見張りを担当していた雪さんが起床した。交代してから精々四時間程度しか経過していない。
「む……おはよう、雪殿。もう少し寝ていてもよいのじゃぞ」
「いえ。普段からこの時間に起きていますので」
「そうか」
恐らく、それ以上は何を言っても無駄だろう。そう判断して、そこで話を終えた。
リビングで温かいお茶を啜っている僕を見て、雪さんは口を開く。
「頂いても?」
「うむ」
そう答えると、彼女は食器棚からマグカップを取り出して僕の向かいに座り、テーブルの上にあった急須からお茶を注いだ。
近頃の日本は、『四季』という概念が薄らいでいるように思う。夏は暑く、冬は寒い。春と秋はどこかへ行ってしまった。
今はもう一一月。本来ならば秋と冬の狭間だろうが、既に真冬並みの寒さとなっていた。
暖房はかけているが、それでも、温かいお茶は骨身に染み渡るようだ。雪さんも寝起きの一杯を引っかけて、ほっと一息ついている。
「何事もありませんでしたか?」
不意に、雪さんがそう口にした。当然、見張り番の最中に襲撃がなかったか、という意味での問いである。
「うむ、平和そのものじゃな。不気味なほどに」
「そうですか。読みが外れましたね」
「そうじゃのぅ……奴らの狙いが読めぬな。突然襲ってきたかと思えば、今度は沈黙じゃ。いったい、なにが目的なのか……」
まだ遭遇してから日も浅い。ただ単に様子見をしているだけなのか、それとも、他に目的があるのか。
そもそも……奴らの目的とは一体何なのか。『篠宮水樹』を排除することが目的なら、集中力の途切れる夜間の襲撃が有効だろうが、結果は沈黙だ。
「今はまだ、判断材料が少なすぎます。敵勢力の規模もわかっていませんし」
「そうじゃな。深く考えても混乱するだけだというのは分かっておるのじゃが……」
襲撃がないことに安堵したい。しかし、状況がそれを許してくれない。もどかしいような、焦ったいような気分だ。
窓から外の景色を眺める、あと少しすれば、陽も昇るだろう。そうなれば漆原骸久の戦力も激減する。何かしらの手掛かりを掴まなくてはならない。
——一方、その頃。
「くそっ……くそっっ!!」
灰色の壁に覆われた部屋……いや、牢獄のような場所で、彼は一人、苛立ちを隠せない様子で壁を殴り付けていた。
酷使したせいか、或いは環境の影響か。皮膚が捲れた拳からは血が滲み、灰色の壁の一部には赤いシミが浮かび上がっている。
整えられていない髪は無造作に伸び、ちぢれ、頬もこけていた。以前の面影すらもない彼の瞳には、けれども熱い炎が灯っていた。
「どうして、どうして僕がこんな目にっ……ぐぁっ……」
——火傷の痕が痛む。業火に呑まれた日のことを思い出して、彼は歯を食いしばった。
黒霧風雅……当主である黒霧雲源の命令で、屋敷の地下にある牢獄に収監されている彼は、改心することもなく苛立ちを抱えたまま日々を過ごしていた。
野放しにすれば、彼は必ず宵山家と篠宮家に復讐をするだろう。それも、三枝家の取り決めを破って。そうなれば、黒霧雲源ですらも収拾を付けられなくなる。
故に、このような仕打ちを受けている。彼が、自らの過ちを認めるその日まで。
「篠宮水樹……それに宵山天音っ……殺す、殺してやるっ……」
だが、彼がその復讐心を忘れることはないだろう。特に、自らの求婚を断り、このような仕打ちを受ける元凶となった篠宮水樹のことは。
この牢獄を出れば、三枝家の取り決めなど関係はない。どんな手を使ってでも、必ずや篠宮水樹達に復讐をする。
そんな強い……強すぎる復讐心を抱いたまま過ぎていく日々。壁を殴り付け、数少ない家具に当たり散らかす日々。
仙力を使って牢獄を壊しても、今度は黒霧雲源の監視のもとで謹慎命令を下されるだけだろう。
どうにかしてここを抜け出してやる……方向性の間違った決意を胸に、火傷の痛みが去るのを待っていた彼のもとに、何やら奇妙な声が届いた。
「——その復讐心、こんな狭い部屋で燻らせておくのは勿体無いね」
「誰だっ!?」
それは男の声だった。聞き覚えのない声に、黒霧風雅は警戒し、入口から最も遠い部屋の隅に身を寄せる。
そして現れたのは、一見すると好青年のようにも見える一人の男と、その側に使える二人の男女だった。
「そう警戒しないでくれ。僕は、君をここから出してあげるために来たんだ」
黒霧風雅は見ていた。この男達が、地面にある『影』から現れたのを。
間違いない。この三人のうち何人が該当するかは分からないが、仙継士だ。それも、かなりの使い手だろう。
眉を顰めたまま、彼は男達を見つめていた。一切の油断も隙も見せない彼の様子に、男は優しく微笑みを見せた。
「信用ならないといった顔だね」
「当然だ。どこの誰かは知らないが、僕は自分の名前すら名乗らないような人間は信用しない」
反論するように、彼がそう言った……次の瞬間。
「黙りなさい」
「っ!?」
側にいた若い女が、喝を入れると同時に手をかざすと、黒霧風雅の体が突然——鉛のように重くなった。
最初は弱く、少し体が重たい程度。しかし、それに耐えている彼の様子が気に入らなかったのか、徐々に力は強まっていく。
「くっ……うっ……!?」
体が前傾姿勢になり、膝を突き、起き上がることが出来ない。上から見えない何かに押し潰されているようで、抵抗することも出来ない。
彼が苦しんでいるのを見て、女は酷く残酷な笑みを浮かべていた。だが、その直後、例の男によってそれを制される。
「やめなさい、莉愛。少し強すぎる」
男が女の腕を下ろし、頭を撫でる。女は途端に小動物のような表情になって、男の手に頭を預けた。
「あぅっ……ごめんなさい、先生……」
「いや、良い子だ。おかげで、彼も話を聞く気になったようだしね」
体を押し潰していた不可視の力が消え、黒霧風雅は若干の気だるさを覚えながら再び立ち上がった。
今、謹慎で弱った状態で敵う相手ではない。逆らえば、最悪の場合、殺されてしまうだろう。そんなことを察した彼は、大人しく、彼らの言葉に耳を傾けることにした。
「さて。これでもう少し建設的な話し合いが出来そうだね、黒霧風雅くん」




