雪の苦難・後編
ヨルの面倒を他の者に任せ、私は必要な物の買い出しのため町を走り回っていた。
緊急で必要なものは子猫用の食事にそれを備えるトレー、設置型のトイレ、トイレ用の砂といったところか。幸い、矢光市内には大きなショッピグモールがある。
こういった準備が必要なため、ペットを迎え入れるならば迎え入れるで、事前の相談なり連絡が欲しかったのだが……過ぎたことにこれ以上文句を付けたところで現実は変わらない。
バイクに跨り最短ルートでショッピングモールに到着すると、すぐに三階にあるペット用品売り場へと駆け込む。
その中から、デザインの良いトレーを探し出し、トイレは屋敷内の各所に設置するため三つ、トイレ用の砂もカゴへと放り込んでいく。途中で見かけたキャットタワーも背中に担ぎ、最後に餌売り場へとやってきた。
ヨルがどのような食事を好むかは、事前に水樹様に電話で確認してある。指定された餌を数種類カゴに放り込み、そのままレジへと向かった。
会計が終わると、箱の大きなキャットタワーとトイレ二つを当日の配達で依頼し、他の物はバイクの荷台にロープで括り付け、すぐさまショッピングモールを後にした。天音様が事前に知らせてくれていれば、ここまで急ぐ必要も無かったのだが……今となっては仕方ない。
「戻ったぞ」
屋敷に帰還し、他の者に任せていたヨルの様子を確認するため、客室へと向かう。扉を開けるとまず目に飛び込んできたのは、楽しそうにヨルと戯れ合う黒衣たちの姿だった。
「……何故?」
黒衣たちに腹を見せ、誘惑するようにくねくねと体を動かすヨル。無防備でもふもふとしたその腹に、黒衣の一人は顔を突っ込んでいた。
私はまだ、触れることも出来ないというのに。それなのに、何故この者たちはこうも容易く戯れ合うことが出来るのか。
「あっ……お帰りなさい、雪さん」
「チッ……」
「何故舌打ちを……?」
何故だか無性に腹が立ち、気付けば舌打ちをしていた。
それからは、ヨルのために屋敷の大改造だ。ひとまず一つだけ積んで帰ってきたトイレを客室の一つに設置し、砂を投入する。その次にトレーに子猫用のウェットフードを盛り、それを餌にヨルを呼び付けた。
食事の匂いがするからか、ヨルが警戒しながらこちらへと近付いてくる。だが、一定のラインを越えると、それ以上は進まなくなってしまった。
「はぁ……私がいると碌に食事も摂れんか」
何とかして好かれたい一心ではあるが、そのせいでヨルが不快な思いをするのでは意味がない。嫌われていると言うのであれば、好かれるまではあまり構わない方がいいだろう。
それにしても、私以外の皆は何故、こうも簡単に懐かれているのだろうか。正直、この中で一番ヨルのために走り回っているのは私だというのに。
——その日の午後。夕食を終え、黒衣たちに稽古をつけて心地良い汗を流した頃だ。
「雪さん、少しいいですか?」
「ん?」
タオルで汗を拭っている最中に、黒衣の一人が声をかけてきた。訓練には参加させず、ヨルの面倒を見させていた者だった。
「どうした?」
「それが……ヨルの姿が見当たらないんです。お手洗いで少し目を離した隙にいなくなってしまって……屋敷の外には出ていないと思うんですけど……」
「ヨルが?」
彼女はもじもじと指を絡め、申し訳なさそうにそう言った。
責め立てることも出来たが……生憎、この屋敷に猫の世話をしたことがある人間はいない。それに、猫というのは本来、自由奔放なものだ。彼女に責任を押し付けるのは、些か酷な話だろう。
「……分かった。私が探しておくから、もう下がっていい」
「はっ……」
黒衣を下がらせ、小さなため息をこぼす。このことが天音様の耳に入れば、また面倒なことになりそうだ。迅速に、ヨルの身柄を確保せねばなるまい。
となれば、まずは推測からだ。身体能力が非常に高い猫ではあるが、それでもまだ小さな子猫。屋敷を離れ、遠くに去ってしまった可能性は考えづらい。
だとするなら、屋敷の中……猫の習性からして、小さな隙間や高い場所にいる可能性が高い。使われていない部屋の扉は基本的に閉まっているから、屋外にいるとみていいだろう。
屋敷中の隙間を探し出すのは骨の折れる作業だ。時間もかかる。ならば、まずは高所の捜索から当たるべきだ。あの小さな体でどれくらいの高さまで登ることが出来るのかは分からないが、捜索にそう時間はかからないだろう。
作戦が決まってからの動きは早かった。屋敷で最も高度の高い本館の屋根に登り、そこから他の建物の屋根を隅々まで見渡していく。些細な動きも見逃さぬよう、全神経を研ぎ澄まして。
「……あれは……」
そして、読み通りの結果になった。鍛錬場の屋根の上で、かさかさと動く小さな影があったのだ。
急いで屋根伝いに飛び移り、見ると、それは小さく丸まるヨルであった。
どうやってここまで登ったのかは分からないが……恐らく、登ったはいいものの降りることが出来なくなったのだろう。発見が遅れていれば、このまま腹を空かせて命を落としていたかもしれない。
ゆっくりとヨルに近付き、小さく舌を鳴らす。こちらに気が付いたヨルは立ち上がると、尻尾をピンと立て、牙を剥き出しにした。
「ほら、おいで、ヨル。高いところは怖いだろう?」
ゆっくりと、ゆっくりと、足音すら立てずに距離を詰めていく。まだこちらのことを警戒しているのか、ヨルもまた、ゆっくりと後退していた。
あまり距離を詰めすぎては……このままヨルが足を踏み外し、屋根から転落してしまうかもしれない。一旦そこで足を止め、真っ直ぐにヨルの目を見つめながら、諭すように話しかけた。
「私のことが怖いのも分かるが……大丈夫。怖がらなくていい。私は、お前を傷付けたりしない」
鋭い眼光が、私を睨みつけている。まるで、恐ろしい化け物を前にしたかのような……どこか『恐怖心』が混じったような、そんな瞳だった。
ヨルの心情も理解出来る。だが、そんなものは無用な心配だということを教えてやりたかった。
依然として警戒を解こうとしないヨル。埒が明かず、懐かれている他の人間を応援として召喚しようとした、その時だ。
——突然、強烈な風が吹き抜けた。それは子猫の体を吹き飛ばすには十分すぎるほどの威力を秘めていて……つまり、遮るもののない屋根の上では、小さなヨルは簡単に吹き飛ばされてしまうということ。
屋根の端に近いところにいたヨルは、突風で姿勢を崩し、そのまま突風に飛ばされ姿を消した。猫は高所からの落下に慣れているとはいえ、まだ子猫で姿勢を崩しているこの状態ではまともに受け身も取れないだろう。
気付けば、体が動いていた。瓦が割れるほどの勢いで屋根を蹴り、落ち行くヨルの元へと駆け付ける。
そして……嫌がる素振りも見せないヨルの体を空中で捕まえ、抱き寄せると、そのまま地面に着地した。
足下からじんわりと、衝撃が少しずつ頭の方へと抜けていく。普段なら受け身の一つでも取ろうものだが……ヨルを抱えている都合上、それも出来なかった。
だが、抱きかかえたヨルは無事だ。驚いて目を見開いてはいるが、怪我の一つもなく、健康そのもの。結果としては、上出来だ。
「……ほら、怖くない。大丈夫か、ヨル」
そう呟きながら頭を撫でると、不思議と、ヨルは目を細めて嬉しそうにするのであった。
——翌朝。黒霧家との戦で得た報酬の分与のために、水樹様が屋敷へとやってきた。近所の和菓子屋で買ったという手土産を持って。
「いらっしゃいませ、水樹様」
「うむ。おはよう、雪殿……む?」
挨拶を返す水樹様の視線が、そのまま、こちらの足下へと向けられる。
そこにいたのは、私の足に身を擦り寄せるヨルだった。昨日の惨状を思い浮かべたのであろう水樹様は、何だか嬉しそうに、口角を吊り上げる。
「なんじゃ、随分と仲良くなったようじゃの」
「ええ、まあ……」
何だか気恥ずかしくなって、目を逸らした。昨晩からずっとこの調子で私の後を追ってくるヨルに、何とも言えない愛らしさを感じながら、どこからか感じる天音様の嫉妬の視線を極力思考から排除した。
こうして、宵山家にヨルという小さな黒猫が加わった。
これから先、この黒猫の存在が宵山家の支えとなることを……今はまだ、誰も知らない。




