のじゃロリ、初の転移経験
——驚くほど気持ちの良い目覚めだった。
もぞもぞと布団をかき分け起き上がると、大きなあくびをする。今日が戦当日だとは思えないほど、ゆったりとした起床だ。
時刻は朝の五時半。普段なら寝ている時間だろうが、今日に備えて早く寝た分、早く目が覚めてしまった。
鞄から朝の支度用品一式を取り出し、慣れた足取りで洗面所へ向かうと、早朝であるにも関わらず先客がいた。
「む、ほひはは」
「磨くか喋るかのどちらかにせんか」
長い黒髪は後ろで束ね、少しの眠気も感じさせないほどぱっちりと開いた瞳。身支度中の天音に遭遇するのは、これが初めてのことだった。
彼女は『がらがら』と音を立てながらうがいをして泡を吐き出し、軽く口を拭いてからこちらへ向き直る。
「おはよう、水樹。よく眠れたか?」
「うむ、驚くほどにな」
「それは良かった。寝不足で戦われたらどうするか悩んでいたところだ」
安心したように言う天音の隣で、歯を磨き始める。宵山家の洗面所及び浴室は銭湯を連想させるほど大きなもので、天音は天音で顔を洗っていた。
歯を磨き終わるのと殆ど同じタイミングで、天音も顔を洗い終わっていた。彼女は手探りでタオルを拾い上げると、こう言葉を続けた。
「緊張してないか?」
見れば、彼女の瞳はじっとこちらを見据えていた。
緊張は、していないと思う。少なくとも、緊張して眠れないだとか、そういったことは起きなかった。
かと言って、どうも思っていないかと聞かれれば……答えは否だ。緊張はしていないが、当然、不安はある。
それと同時に、同じくらいの『期待』もあった。隆盛に——僕の親友に手を出したあの男に、この手で罰を与えられるのだから。
「……いや、愚問だったな」
何も答えずに彼女を見つめ返すと、そんな風に解釈してくれた。敢えて細かく言葉にする必要もないだろう。
「……やるべきことは、ただ一つだ」
そう言って、天音が拳を突き出してくる。開戦前に気合いを入れるためだろう。
彼女の拳に自らの拳を軽く突き合わせる。
僕が、すべきことは。
「うむ。わしの友を傷付けたあの男を、この手で叩き潰す」
「ああ、その意気だ」
あの男、黒霧風雅を叩きのめし、戦にも勝利する。天音への恩返しをする良い機会だ。負けるわけにはいかない。
それからおよそ一時間後。宵山の屋敷内で最後の準備をしていると、屋敷内に『異物』が紛れ込んだような感覚を覚えた。天音から事前に説明を受けていなければ、敵襲だと思い込んで飛び出していたことだろう。
「……来たか」
そう呟き立ち上がった天音に続いて、僕と隆盛も立ち上がる。どうやら、迎えが来たらしい。
それは、屋敷の門付近で静かに佇んでいた。
クラシカルなメイド服に身を包み、僕らを出迎える二〇代後半程度の女性。
まるで、人間とは思えないほど、生気の感じられない瞳。主人を出迎える召使のように手を前で組み、機械のように一寸たりとも動かないその姿は、僕たちと同じ人間だとは思えなかった。
「宵山天音様。篠宮水樹様。お迎えにあがりました」
彼女はそう言うと、ゆっくりと頭を下げる。少しの狂いもない、綺麗なお辞儀だった。
初めてのことで呆気に取られていた、僕と隆盛。天音はそんな僕たちのもとまで近寄ると、耳元に顔を寄せ小さな声で言った。
「……彼女が三枝家の使いだ。下手な態度をとると後で痛い目を見ることになる。対応は私に任せろ」
首を縦に振り、隆盛と共に一歩後ろへと下がる。つまり、『余計なことを口走るな』ということだ。
「ご足労いただき感謝する。当家からの人員は、篠宮水樹を含め、六名だ」
「承知いたしました。それでは、転移を開始いたします。対象となる六名はこちらへ」
転移……即ち、長距離での瞬間移動を可能とする仙力。現在、日本で確認されているのは、三枝家にただ一人。彼女だけだ。
開戦当日には、こうして彼女が必要人員を三枝家の領地へと転移させてくれる。
それ以外の経路で三枝家の領地へ向かうことは出来ない。何故なら……三枝家の領地が何処に位置しているのか、それを誰も知らないからだ。
仙継士一族を取りまとめる三枝家は、その特性上、他の仙継士からの襲撃を良しとしない。そのため、三枝家の人間以外は誰も、領地の場所を知らされていないのだ。
一説によれば、日本の地下深くに位置しているだとか、遥か上空に浮かんでいるだとか、そんな噂も仙継士の間で流れているようだが……真偽の程は、三枝家以外には分からない。
彼女が仙力の使用を始めると、途端に周囲の地面が青く光り輝き始める。それも、彼女を中心として円形に。
天音曰く、この光る円に入っていた者を転移させることが出来るらしい。仙力というものには、理屈だとか法則だとかは適用されないみたいだ。
円に入るべく、一歩踏み出す。その時、僕の手を隆盛が取った。
「……無茶するなよ、水樹」
「うむ。必ずや、勝利を持ち帰ろう。それから、あの男が泣き喚いている写真も撮っておかんとな」
「おう、楽しみにしてる」
引き留める気はないらしい。力強い目で見送ってくれる隆盛に別れを告げ、僕は円内に踏み入った。
「仙力発動……『最果ノ門』」
三枝家の使いが呟き、手を叩き鳴らした瞬間……視界が暗転した。
——時間にして、およそ瞬き三回分。暗くなっていた視界が次第に明るみ始め、四回目の瞬きで……目の前には、見たこともない光景が広がっていた。
空を、『何か』が覆っている。空いっぱいに広がるのは、いつもと変わらない青空と陽の光だが、何か違和感がある。
仙力の一種だろうか。一見すればただの青空だが、膜、もしくは壁のようなものに覆われているという奇妙な感覚に襲われた。
そんな奇妙な青空の下、大きな屋敷が建っていた。屋敷といっても、宵山家のような日本家屋ではない。
どちらかといえば、西洋の……小さな『城』といった方が差し支えないようなものである。
「これが三枝家の……」
呆気に取られ、空いた口が塞がらない。そんな僕の肩に、天音が手を添えた。
「驚いたか? 私もここへ来たのは久しぶりだ。前来た時は……もっとこう、魔王城みたいな見た目だった気がするんだが」
「どういうことなのじゃ……」
曰く、当主の趣味によるものなのか別の理由によるものなのか、三枝家の屋敷は定期的にモデルチェンジが行われているらしい。今回は西洋の城をモチーフとしたものだそうだ。
正直、何を言っているのかさっぱり分からないが……どうやら、天音も分かっていないようだった。
小さな城を見上げ、呆然とする一同。すると、城の扉が開き、中から四人の男女が現れた。建物の外観に合わせてのものなのか、執事やメイドといった服装で。
そういえば、転移の使いで来た人もメイド服を着ていた。何か別の理由があるのかもしれないと思っていたが、ただ単に当主の趣味によるものなのかもしれない。
「宵山様、篠宮様、どうぞこちらへ」
現れた執事たちに連れられ、城の中へと案内される。家門ごとに客室が用意されているらしく、僕は宵山の傘下であるため、天音たちと同じ部屋に通されるようだ。
執事が客室の扉を開くと……部屋の中には既に人影があった。ソファに座り、優雅にティータイムを楽しむ女性が一人と、その側に仕える宵山家の家臣が三人。
同じ部屋に通されるのは、同じ陣営の人間だけ。つまり、あの女性は。
「お久しぶりです、母様」
天音が前へ出て、頭を下げる。その声に反応して、ティータイムを楽しんでいた女性は、ゆっくりとこちらを向いた。
——刹那、その背後に『修羅』を見た。天音や黒霧風雅とは異なる、僕に対する明確な敵意。それも、憎悪を孕んだような、ドス黒い敵意だ。
「あらあら、まあまあ……天音ちゃん、また背が伸びたかしら?」
のんびりとした口調に、常に笑顔を絶やさない聖母のような女性。
天音の実の母にして、宵山家現当主……『宵山茜音』。
そして、天音曰く————極度の、親バカである。




